見出し画像

ストリートピアノ

気がついたら2時間経っていた。なんてことが、予定のない日、実家でピアノを弾いていると、度々起こる。


✎︎____________


私はピアノが好きなのだ。

物心ついた頃から家に電子ピアノがあったことや、「やってみたい」と両親に言ったら、ピアノを習わせてもらえたことなど、今考えれば恵まれた境遇ゆえに培われた感情であることは重々承知している。


さりとて、繰り返す。私はピアノが好きなのだ。


一人暮らしを始めて9年。アパートにはピアノを置ける場所がなく、ピアノ触りたさゆえに実家に帰ったことも、実は一度や二度ではない。

いつでもピアノを弾ける環境に身を置かなくなったことで、ようやく私は「どうしてもピアノが弾きたい」という感情を手に入れることができたのだ。

それゆえ、ストリートピアノを見かけたら必ず足を止める。

(もっと言えば家電量販店の電子ピアノコーナーや、楽器屋さんの試弾コーナーでも、必ず足を止める。)


だけどそこに、楽譜はない。たまたま見かけるものだから。楽譜を持ち歩くという世界線を生きていないから。あるのは私の頭、いや、指にある記憶のみ。だから、弾いたことのある曲しか弾けない。過去に完成させた曲しか弾けない。

そのことをたまに、もどかしく思う。

youtubeや他の人が弾くピアノを聞いては「あ、この曲弾きたいな」と思う。そして、楽譜を調べ「あ、練習すれば弾けそう」と思う。

しかし、練習できるピアノが、身近にないのだ。

だから、いつまでも、私のレパートリーは、ピアノを習っていた頃のままである。中学生の自分に弾けて、今の私に弾けないなんてこと、ないはずなのに。新しい曲を弾けるようになるまでのハードルが高くなってしまった。

少し寂しい。


✎︎____________


それでもピアノを触る機会があるのなら、逃したくはない。ピアノを弾いている時は、夢中でいられるから。その世界に没頭できるから。

ドイツで楽譜を買った時に感じたのだ。五線譜は世界共通なの、すごいな、と。ドイツ人の友達の実家で、セッションした時に悟ったのだ。音楽は共通言語なのだ、と。

生まれた時代や場所は違えども、楽譜が読めると、何かが通い合った気になる。その感覚が私はこの上なく好きだ。


だから、ピアノを弾くことで私も世界の片鱗に触れられるということを再認識している。


✎︎____________


ストリートピアノを見かけると、弾くようにしている。どこにでも置いてあるわけではないから、見つけるといつも胸が高鳴る。

湯野上温泉駅近くの宿。
ロンドンのヒースロー空港。
隣駅にあるショッピングモールのセンターホール。

ストリートピアノの魅力は、聞いている人が興味を示さなかったら、誰も聴衆がいないことだと私は考えている。

考えてみてほしい。どこの誰とも分からない誰かが、たまたま訪れた場所でピアノを弾いているだけなのだ。時間と心に余裕があるか、好きな曲が流れているか、奏でられた音色がよっぽど魅力的でないかぎり、「聞いていこう」とはならない。

それでいいと思う。

だからこそ、弾く側としては、聴衆がいると、さらに演奏後に笑顔で拍手がもらえると、この上なく嬉しいのだ。立ち止まってくれて、聞いてくれて、私の音を見つけてくれて、ありがとう。そう思う。

先週見つけたストリートピアノ。ショッピングセンターの1階で『乙女の祈り』を弾き終わったあと、2階から拍手をしてくれた老夫婦がいたのを思い出す。

あの時、思わず満面の笑みを浮かべた私は、今日も「どうしてもピアノが弾きたい」と悶々としながら、いつもの手帳に弾きたい曲をリストアップする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?