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目標が、70m先にあると思ってください

高校生の時は、アーチェリー部でした

そう言うと、必ずと言っていいほど興味を示していただける。

珍しいこと。
ぼんやりとしかイメージできないこと。
ルールすらもよく分からないこと。

さまざまな要因が、聞いてくださっている人に「へえ!」と関心を寄せさせてくれるのだろう。

どちらかと言えばマイナーなスポーツであり、経験する機会もなかなか訪れないアーチェリー。スポーツを羅列する時に出てくる順番としても、かなり後の方ではないだろうか。なんなら出てこないことも少なくないのでは?とすら思う。そもそもスポーツだと認識されているのかも怪しい。(言い過ぎ?)

しかし、とにかく。

格好いいのだ。

「格好いいですね!」と、言っていただけるのだ。


私もそう思っている。心の底からそう思っている。アーチェリーは格好いい。

オリンピック日本代表選手がメダルを獲得したことも、そう遠い記憶ではない。


しかし、なにが格好いいのかと改めて問われると、うまく答えられない。

扱う道具がいかついから?
70mも先の的を射るから?
初見ではできないから?
凄まじい集中力を要するから?
打っている時は一人だから?

これらきっと、どれも格好いい要因の一つであり、敬遠される理由の一つでもあるのだろう。


私がアーチェリーを好きな理由

一言でまとめるならば、とても静かだからだ。

実際に私に会ったことがあり、私を知ってくださっている方はご存知だと思うが、私はうるさい。相当にかまびすしい。ずっと喋っているといっても過言ではない。

一人で暮らしているアパート内ですら、無音は意図しないと作れない。


音だけではない。

私は頭の中が常に言葉や思考や空間、更新、回想・回顧に満ちている。ゴールラインがあることを知らない短距離走のような勢いで、溢れそうになっている。頭の中が、無を知らないのだ。

ただ黙っているだけの時でも、頭の中は本当にうるさい。無音の時間を大事にしようと心がけてはいるものの、様々な思考の流れが頭の中を駆け巡る。


今もそう。この文章を書いている時だって、これまでのアーチェリーのシーンが浮かんでは消え、その時の服装や空気感、仲間と交わした言葉までも思い出そうとしている。とどまることを知らない。


そんな私の頭の中。


その脳内までもが凪いで静まり返る瞬間が、アーチェリーをしている時だ。今のところ自覚できているのは、その時に限る。

というよりも、実のところ、ついこの間気がついた。


久しぶりの自分の弓を持って、アーチェリーをしに出掛け、何本目かの矢を打ち終わった時に。

「あれ?私今、無だった?」とふと我に返った。

弓を引いて矢を放ちながら、弓を引いて矢を放つことだけを考える。


当たり前のことのように聞こえるかもしれないが、他のことをしている時は、この当たり前のことができないのだ。

たとえばピアノを弾いている時。

本来ならばピアノを弾くことだけを考えるべきなのだろうけど。

架空の聴衆のリアクションやピアノを披露した時に言われるであろう言葉、ピアノを弾いている自分はまわりにどう見られるか、などなど、たくさんのことを考えながら弾いている。それはそれはうるさい。


アーチェリーをしている時は特別である。

弓を引いてくる。
そこから、エイミング(狙う)。

そしてクリッカーを切る。
右手で引くのと同じだけの力で、左手で押す。

右手で引くのと同じだけの力で、左手で押す。

クリッカーが切れた瞬間に、リリース。
力んではいけない。ただ、矢を放つだけ。


きちんと、狙って。

的を射ることだけに集中できて。

それ以外のことは一切考えない。


そんなことができるのは、アーチェリーをしている時だけだ。少なくとも、私にとっては。


アーチェリーは、私を落ち着かせてくれる。

動きの多くないスポーツ。静のスポーツ。黙っている時間の方が圧倒的に多い。団体戦中でも、自分が打っている時は正直仲間の声も聞こえないことがある。耳には届くけど、頭には入らない。そんな感覚だ。




いつも喧喧囂囂している私の脳内が凪ぐ時間。

多くを語らないのに、一連の行動がきちんと繋がっているしなやかさ。


この感覚が、私には必要なようだ。


アーチェリーをしている時、頭の中がとっても静かになる。

これが、私がアーチェリーをやめられない理由。

私にとって大切なものの一つ。

アーチェリー。

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