曖昧さの学び

対象を区別して考えるというのは、人が日常的にしている行為の一つです。人間は対象を区別して、その差異を見つけることによって、対象の特徴を認識するので、人間の認知行為は、区別する行為なくしては成り立たないのではないかと思っています。

 ところが、現実の世界を見ると、ある対象が綺麗に全く異論なく区別できることはあまり多くありません。連続的なグラデーションの中の1点に線が引かれ、両者の境界線に注目すると、その違いは曖昧ということも少なくありません。動物と植物の間、生物と無生物の間、集団と集団の間。一見明確に分かれているように見えて、その境界にはたいていどちらに分類してよいのか悩ませる存在がいます。定義を揺るがす存在がいます。 

その境目は、そこに本質的な境界があるというよりも、そこを境に区別したいという人の意思も避けがたく入っていると感じます。ただ、ひとたび区別し、その差異を認識すると、両者の違いの曖昧さは忘れられて、その違いばかりが強調され、時にはその線を境に敵と味方に分けられたりしてしまうこともあります。 

対象のどこかに線を引いて区別するという行為は、人間が認識し考えるうえで必要なことなので、それ自体は悪いことではないと思いますが、一方で、その区別は思っているよりは連続的で曖昧であるということも、時には思い出す必要があるのではないかなと思います。 

こうした曖昧さへの理解は、教科書的な学びよりは、むしろ体験による学びの方に優位性があるのではないかと思っています。とにかく細かく分類して差異を見つけることが主流の時代に、加えてその曖昧さを学ぶというのも価値があると思いますし、そのことによってもっと優しくなれるのでは、なんて思ったりもします。 子供にも体験を通じた学び、させてあげたいと思います。