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ソフトウェアエンジニアが『寝ながら学べる構造主義』

何かを学ぶときはその関連書籍を複数読みましょうね、ってことで以前、『はじめての構造主義』を読みました。

面白い分野でどこかで connecting the dots しそうだな、と感じたのでもう一冊ほど読みました。それが、『寝ながら学べる構造主義』です。

なぜ、「ソフトウェアエンジニアが」と表題をつけたかというと、ちょいちょいOSSとか二進法とか、馴染みのある概念を例に説明してくれているところがあるからです。

『寝ながら学べる構造主義』

この書籍は、構造主義を学びたい人におすすめ書籍選の入門で『はじめての構造主義』と合わせて紹介されていました。

『はじめての構造主義』は、構造主義の始まりの祖とされているレヴィ=ストロースを中心に解説されている本でしたが、『寝ながら学べる構造主義』は、構造主義の四銃士と呼ばれる、フーコー・バルト・レヴィ=ストロース・ラカンの考え方を中心に説明しています。

また、それ以前の先行者で彼らへの影響が多大だったマルクス・フロイト・ニーチェ・ソシュールについても触れています。

著者は、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授の内田 樹。語り口としては、わりと勤勉な大学生が入門書として手にとったら、それなりにスラスラ読める、という温度感かな。

ソクラテス的無知の知の姿勢

ソクラテスの無知の知の姿勢だなと勝手に感じ取ったのは、次の一文。

知性がみずからに課すいちばん大切な仕事は、実は、「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのです。知的探求は(それが本質的なものであろうとするならば)、つねに「私は何を知っているか」ではなく、「私は何を知らないか」を起点に開始されます。そして、その「答えられない問い」、時間とは何か、死とは何か、性とは何か、共同体とは何か、貨幣とは何か、記号とは何か、交換とは何か、欲望とは何か……といった一連の問いこそ、私たちすべてにひとしく分かち合われた根源的に人間的な問いなのです。 

知的探求は、つねに「何を知らないか」を起点に開始される。この知的探求の情熱の姿勢は、無知の知の姿勢と言えるかなと。

以前読んだ『史上最強の哲学入門』にて、ソクラテスの無知の知は、次のように平易に説明されていました。

つまるところ、彼は、ただとにかく「真理」が知りたかった。そして、それを知ろうともしない世界に対して反逆したかった。そんな彼が、なぜ偉い知識人たちの無知を暴き出そうとしたのかといえば、それは彼が無知の自覚こそが真理への情熱を呼び起こすものだと考えていたからである。当たり前の話だが、「知っている」と思っていたら「知りたい」と思うわけがない。「知らない」と思うからこそ「知りたい」と願うのである。 / 飲茶. 『史上最強の哲学入門』 02 ソクラテス 無知を自覚することが真理への第一歩

ポスト構造主義の捉え方

この書籍は2002年出版で、今もそうなのか思想史の変遷を最新まで追えていませんが、その時点から現在に至る21世紀は、ポスト構造主義の時代、と呼ばれている(いた)。

この "ポスト" という言葉を使うと、「打倒された」のか「どうアップデートされたのか」が使い方によって変わりますが、著者の立場は、

「ポスト構造主義期」というのは、構造主義の思考方法があまりに深く私たちのものの考え方や感じ方の中に浸透してしまったために、あらためて構造主義者の書物を読んだり、その思想を勉強したりしなくても、その発想方法そのものが私たちにとって「自明なもの」になってしまった時代  

としている。自分たちにとって自明なものになった、そんな時代の考え方、それが構造主義である、とすると、我々の思考にとって支配的に流れる「それ」を認識することはとっっっっても興味深くなりますよね。

ソフトウェアの世界におけるオブジェクト指向は「自明なもの」?

ちょっと脱線しますが、ソフトウェア設計・プログラミングの考え方に、オブジェクト指向とかオブジェクト指向設計とかがあって、それがもう数十年時を経て未だに「自明なもの」となっていないわけですが、これは「自明なもの」になる日は来るのでしょうか。

あるいは、「関数型プログラミング」によって、代入が奪われた新たな制約をもった発想方法がそれを打倒するのでしょうか。あるいは弁証法的にそれらの両方の利点を持ったあらたな考え方に昇華していくのでしょうか。

そもそも、言葉で説明するまでもないくらいに自明になることが、ポストオブジェクト指向と捉えると、それは我々の発展というよりかは、我々を取り巻く道具(フレームワーク・言語)の発展と言えそう。

世代によって、「俺達はオブジェクト指向設計しているのか?」という問いに対する感想が異なります。若い世代は「していない!」っておもうし、ちょっとベテランの世代は「だってフレームワーク使ってる時点でしてるでしょ」っていう意見があったりします。これってある種のポストオブジェクト指向、あらたな時代・考え方の始まりの歪なのかもしれない。

思想史の歴史はこれらのソフトウェアの世界の考え方がどのように変遷しうるのかを考えるための、歴史の先生になってくれるかもしれないですね。

構造主義の考え方

構造主義がもたらした発想法として、我々が常識と思っていることは、偏見に過ぎないというものがある。

「私たちはつねにあるイデオロギーが『常識』として支配している、『偏見の時代』を生きている」

たとえば、アフガン戦争で、アメリカ人視点の景色・アフガン人視点の景色は全く別物である、という言われてみてれば常識的なこの考え方は、極めて若い常識だと、指摘しています。

一口に説明した著者の一文が、

私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。

源流思想:主体性の起源は、主体の「存在」ではなく、主体の「行動」にある

この構造主義の考え方の源流の最初の例として紹介されるのが、カール・マルクス。

マルクスが主張したのは、階級意識と呼ばれる、階級による見え方の違い。

人間は「どの階級に属するか」によって、「ものの見え方」が変わってくる

人間の個別性が、その人自身が「何であるか」よりも「何事をなすか」によって決定される、という考え方。

「普遍的人間性」というようなものはない。仮にあったとしても、それは現実の社会関係においては、「現状肯定」──「存在すること、行動しないこと」を正当化するイデオロギーとしてしか機能しない。マルクスはそう考えました。人間は行動を通じて何かを作り出し、その創作物が、その作り手自身が何ものであるかを規定し返す。

また、彼のこの「何事をなすか」に軸足を置く人間観は、ヘーゲルの人間学の影響が強いようです。ヘーゲルの主張は次のもの。

人間が人間として客観的に実現されるのは、労働によって、ただ労働によってだけ

ここで言う労働は、マルクスがいうところの「創作物」と言える。ヘーグルの考えを引き継いで以降のヨーロッパの思想史に、ヘーゲルの人間学が影響を与え続けています。

構造主義も彼らの影響を受けた人間観にたっており、それが、

主体性の起源は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。

という根底の考え方になります。

源流思想: 抑圧

マルクスの他に源流とされる人物が、ジグムント・フロイトでした。

無意識でおなじみのフロイトさん。

マルクスが人間の思考を規定するものとして、人間を巻き込む生産に着目した一方で、フロイトは逆に内面である「無意識」に着目しました。無意識とは、当人には直接知られず、にもかかわらずその人の判断や行動を支配しているもの、としています。

そして、「自分がどういうふうに思考しているのか、主体は知らない」という点を「抑圧」というメカニズムで看破しています。

私たちは自分の心の中にあることはすべて意識化できるわけではなく、それを意識化することが苦痛であるような心的活動は、無意識に押し戻されるという事実です
私たちは自分を個性豊かな人間であって、独特の仕方でものを考えたり感じたりしているつもりでいますが、その意識活動の全プロセスには、「ある心的過程から構造的に眼を逸らし続けている」という抑圧のバイアスがつねにかかっているのです。

源流思想: ニーチェ

「神は死んだ」悟り系コンビニ店員の漫画でおなじみ、フリードリヒ・ニーチェさん。彼は、さらに、マルクス・フロイトと、時代を下る中で人間的自由・主権性の範囲を狭めていく流れを決定づけた思想家と、筆者が評価しています。

ニーチェは、「私達は自分が何者であるかを知らない」と言い切る。ヘーグル風に言えば「自己意識」を持つことができない、いわば他の動物と同レベルである、と。

技芸の伝承

ちょい脱線ですが、ニーチェは、古典文献学者としてスタートした研究者だそう。古典文献研究では、「今の自分」をいったん「カッコに入れ」ることで、現代人には理解できないような過去の時代の感受性・心性を中立的に再現する、ということが必要になります。

『悲劇の誕生』という処女作では、その意他的な精神活動を偏見抜きで共感する能力をはっきり示した著作だと言っています。

この話に関連して、技芸の伝承、について「師を見るな、師が見ているものを見よ」と言われることをメタファーとして示していました。

「今の自分」を基準点にして、師の技芸を解釈し、模倣することに甘んじると、技芸は下がり劣化・変形していく。

それを防ぐには、師その人や師の技芸ではなく、「師の視線」、「師の欲望」、「師の感動」に照準しなければならない

これについて、ふと、人を見て学ぶ量が少ない人・多い人がいるな、と見渡して思うことが有るのですが、学ぶ量が多い人は、見ている人がどう考えて何を見て、どこを目指そうとしているのか、とその背景を凝視しているように見えます。プログラマであれば、「この slack チャンネルは頻繁に見ている」、とか、「目の前のコードだけではなくその背後でこういう事を考えている」とか。

そして、その「師の視線」、「師の欲望」、「師の感動」を追体験するには、師が背景で学んできたことを勉強して初めてわかることが多い。

普通にニーチェの話を見ていただけだったが、人を見るときの見方として、参考になるアプローチだなと。

源流思想: ニーチェの道徳観

さて、この話の続きでした。

ニーチェは、「私達は自分が何者であるかを知らない」と言い切る。

ニーチェが断定したのは、同時代人は「臆断」の捕虜になっている、ということ。ニーチェ存命の時代、19世紀ドイツは、キリスト教徒にとって自然と思われる価値判断・審美的判断を、歴史的形成の末の偏見・予断であるとみなさず、人類一般に普遍的に妥当するものだと信じ込んでいました。

この自己意識の致命的な欠如ゆえに、「何者である」かを知らず、どんな仕方で思考しているのかを知らない。彼の研究は以降「どうしてこんなアホなんや?」について思考がめぐらされる。

ここから、「道徳観」についての話が展開されます。本書ではJ.S.ミルの「近代市民社会」の考察と比較した上で、ニーチェの「現代大衆社会」の考察が展開されます。

ニーチェの大衆社会は、成員たちが「群」をなしていて、もっぱら「隣の人と同じように振る舞う」ことを最優先的に配慮するようにして成り立つ社会、のことを言います。そして、非主体的な群衆を「畜群(Herde)」と名付けました。

また、「みんなと同じ」であること自体に「幸福」・「快楽」を見出すようになったような人間たちを、「奴隷(Sklave)」 と名付けました。「奴隷」が相互模範の捕囚である一方で、自分の外側にいかなる参照項を持たない自律者を「貴族」と名付けました。そして、「貴族」を極限まで突き詰めたものが「超人」です。

この「超人」という概念、昔言葉だけ学んでよくわからんなと思っていたのですが、実際ニーチェが明確にそれが誰でどうすればなれるのかは具体的に言っていないよう。これは、具体的な存在者ではなく、「人間の超克」という運動性そのもののようだと説明しています。畜群的存在(=奴隷)であることを苦痛に感じ、恥じる感受性をもち、そこから抜け出そううとする意思、のことだと。

源流思想: ソシュール

ここからソシュールの話になる。ここは『はじめての構造主義』をあわせて読んでいると、同じ概念を違う説明・例で教えてくれるので、面白い。

個人的には、高島俊男という中国文学者も、漢語と日本語の間でも、言語によってものの「区別の仕方」が違うという点が興味深かった。

存在する概念に対して名前・ことばをつけているのではなく、言葉をつけたからこそそこに概念が存在する、という話ですね。

実際生理現象もことばによって影響受けているらしい。「肩をこる」というのは日本語を使う人の体にしか生じないっていう話があるらしい。実際に、英語では I have a pain on the back. というらしい。英語を使うと背中が痛むんですね。

フーコー・バルト・レヴィ=ストロース・ラカン

源流に興味津津がちな私、この本の本題である、フーコー・バルト・レヴィ=ストロース・ラカン、については、ぜひ本書を手にとってほしい。

この4者の話の中で、日本人に馴染みがあったり、「へぇ」っておもったような話が色々あった。

日本人の有る方が「ナンバ」という歩行法から明治維新あとのヨーロッパ式の軍隊行進に矯正したが、全国の学校のあの「朝礼」はその歩き方を体に刷り込ませるために行われたものだ

とか、

フーコーの身体刑の分析を通じて、どうして前近代の身体刑があんなに残忍なのか。それは、カントーロヴィッチの「国王二体論」という法思想研究の概念に基づくものだ

とか、

バルトのテクスト理論家として、テクストと読者の間に「絡み合い」の構造があることに気が付き、批評の基本原理を作ったこと。たとえば、本を二回読むとよく「ここ気づかなかった」ということがよくあるのですが、それは、一回本を読んだから私達の見方に微妙な変化が生じたせいだと。テクストが読める主体、への変化形成は、テクストを読む経験そのものが行っていた

とかとか

おわりに

筆者自体が、コンピューターサイエンスに馴染みがあるのかそういう世代なのか、OSSの話がバルトのテクスト論の話でできたり、レヴィ=ストロースが参考にした音韻論・音素論や親族研究について、二項対立の考え方をコンピュータの二進法を例に説明していたりしています。

いちソフトウェアエンジニアとして、「あぁそのことか」とわかりやすかった。

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