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12月19日の日記 事後的理解

・「だらしないこと・ひとが嫌いだ」ということについて考えていた。

・私自身それなりにだらしない方だから、「そういうお前はどうなんだ!!」って言われたら「そういう自分のことも嫌いです」と返すしかない。はい、自分も含めて「いややな〜」と思っています。

・なんでこんなに嫌いなのかなと思って色々検討した結果、「他人の責任を1ミリも負いたくないから」というひとまずの結論が出た。1ミリも負いたくない。そういう日もあるし、それが発生しうることも理解してるけど、本当は1ミリも負いたくない。だから「だらしない」という概念自体が嫌なんだと思う。

・なので「許されたい」と思ってる人(自分含む)のことも、しんどくていやだ。「自分は生きてていいんだ」の自己肯定のコストを私が支払わされている……と感じる。いいけどね。いやだったら断るし。でも、基本的には重荷に感じてるんだな、って最近分かった。

・そもそも「そのままのあなたでいいんですよ」みたいな言葉に励まされる人っているのだろうか。言葉だけ掛けられたって、目の前の人生は何も変わってない。「あなたはこことこことここが良くないから直した方がいい」って言われる方がためになるのではないのか(耳が痛いから受け入れるのに時間はかかるけど)。

・そういう言葉を切実に求めている人の気持ちを全く理解できてない。

・最近は「自分はなんて心が狭いんだ」と「自分はなんて器が小さいんだ」の繰り返しだ。自分は自分の理想とするような人間では全くない。でも仕方ない。そういう自分に生まれたのだから。


・永劫回帰という概念がある。ニーチェが唱えたもので、「二度目の人生で全く同じことが起きてもその生を肯定できるか?いけるか?」という問いである。

・最近は割とカジュアルに「オッケー👌」って思えるようになった。できればいやなことは起こらないでほしいけど、そういうのも人生のうちだって思えるようになった。

・すごく気楽になったなって思う。


・ガッカリすることがあった。「あー」と気付いた瞬間には手遅れだった。さっぱり諦めが付くときも多いが、今回は結構引きずった。

・しかし、もうどうしようもない。

・自分がどれだけ期待していたのか、悲しいのか、怒っているのか、みたいなことを事後的な反応で測りがち。事が起こった瞬間というのは感情に呑まれていたり、逆に言語で合理化を図っていたりするので、自分の本音がいまいち分からない。

・楽しみにしているアニメとかドラマとかも、周回遅れで観る方がいい。誰かと同時に視聴していると否が応でもそっちに反応が引っ張られてしまうから。

・「楽しみじゃないから後に回せるの?」と聞かれたけど、そういうことではない。自分が一番冷静に、楽しんで、一人きりになれる心境が来るタイミングを待っているという感じ。


・体が疲れ切っていて思考だけが暴走している感じがする。ここ最近なかったいつものあれ。ということはここ最近の体は疲れてなかったのか。いつも後から分かる。

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