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まいご

 身につけている小物があまりに緑なので、そろそろ木になれるのでは? 私は木の幹になりたい。ずらりとならんでいる街路樹がきらきら電飾をまかれていて、どんな気持ちだろうか、人の視線がうるさくはないだろうか、と勘ぐってしまった。しかし私は年中彼らを眺めるのが大好きなので、よっぽど厄介だと思う。

 枝分かれに法則はあるのだろうか? 以前みかけた「川だけで描いた地図」、まるで木が密集しているようで心踊りました。血管とも例えられていて、繊細な木々をモノクロで撮ったときなんか、ほんとそう見える。

 予測ができない、伸びる方向も分岐数も。例えばこれらの幹や枝が道だとして、そこを歩くと想像する。膨大な選択肢に、目がくらむ。ひたすら進んで進んで、ようやくたどり着いた先には、葉っぱが居る。でもよ〜く見ると、さらにとんでもない数の道(葉脈)があらわれる。

 スピッツ『ネズミの進化』に「よく見りゃいくつも道があり 実はその先も分かれてた」という歌詞があって、脈をみるたび思い出す。川も枝も葉脈も、自分の中にびっしりひろがる血管も、日常生活も、無数に分岐してるのだなと考える。考えるのだけど、途方もなさすぎて、だんだん「自分ってなんだっけ」「生きるってなんだっけ」と迷路にはまる。で、最終的には「あ〜〜〜水になりてえ〜〜」に落ち着く。

 そういえば実家にあった化粧水がすごくよくてお気に入りだった。上善如水。高い保湿力に、お肌が喜んでました。

上善水の如し《「老子」八章から》最高の善は水のようなものである。万物に利益をあたえながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善のたとえとしたことば。

https://kotobank.jp/word/上善水の如し-681648

 老荘思想だいすきマン。話が横道に逸れすぎてびっくりしてます。ここはどこ……私はだれ……。振り出しに戻る。

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