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パリの手記

『パリの手記1 海そして変容』(辻邦生 1973年 河出書房新社)をまたこの時期に読み直した。(上の画像は後の文庫版の書影。なお『パリの手記』は新潮社版の辻邦生全集にも収録されている。)

辻邦生のパリ(またはフランス)滞在日記は3種類ある。
(1)『パリの手記』(全5巻)。(1957年からの最初のパリ滞在。)
(2)『モンマルトル日記』(集英社)。(1968年からの滞在。)
(3)『パリの時』(全3巻 中央公論社)。(1980年からの滞在。)

このうちで、『パリの手記』は若きと言っても本人は32歳ではあるが、ともかく若き辻夫妻の、パリでの修行の様子がわかって、3種の内もっとも好きな日記作品である。『パリの手記』は当時、辻邦生が毎日書いていたノートから材料をとり後に「創作」された日記である。この創作の仕方そのものも私の模倣の対象になった。

先にパリに着いていた森有正もたびたび登場して、辻邦生夫妻をなにくれとなく励ます。留学生活上の些事にとらわれず、毎日規則正しく8時間は勉強するようにとも。辻邦生も国立図書館に通い、読み、調べ、懸命に「小説論」(後の『小説への序章』)を書こうとする。筆はなかなか進まない。本来は『小説への序章』をさっさと書き上げ、そこで定まったスタンスのもとに、創作を始めたかったのだろう。しかしスタンスがなかなか決まらない。辻夫人は着々と古いキリスト教美術の研究を続けて学位をとるのに。

このあたりの様子は、漱石が倫敦でひとりでやろうとした作業風景に似ている。『文学論』の自序を見るとそう思える。漱石のほうが孤独で悲壮にやっていたようだが。

https://allreviews.jp/isbn/4003600142

親友である北杜夫がマグロ資源調査船の船医となり、訪ねてくるが、彼の励ましもすぐには役立たない。やっと、1960年に小説『城』を書き上げる。北杜夫を通じて埴谷雄高に読んでもらって、お墨付きをもらい、なんとか文壇デビューを果たす。

このような青春の苦闘時代の日記であるだけに、これを読むことには大きな意味が感じられた。何回も読み直した。そして辻邦生の他の小説もほとんど買って読んだ。森有正の本もかなり読んだし、辻邦生が勉強したトーマス・マンの解説本だけでなく、トーマス・マン全集も買って全部読んだ。

辻邦生と森有正とトーマス・マンとは私の青春時代のアイドルで、日本文学や哲学、ヨーロッパの文学に関する「先生」とも言える。『魔の山』のセテムブリーニが「凡庸」なる若者ハンス・カストルプの辛抱強い先生であったように。



https://allreviews.jp/review/738


春になると何かしら新しいことを勉強したくなるが、何をしていいかわからないことがある。そんなときは彼らのものを取り上げて読んで見る。新しい興味の対象が見つかる。それを勉強していて方向が見えなくなる。するとまた彼らの著作に戻る。

以下、『パリの手記』からの抜粋。

1957年11月15日。森先生とシャトレの中華料理店で話したとき、「日常のわずらわしい事柄の影響から、精神的なものをまもり、少しもそれがゆるがないようにすることに熟達する必要がありますね」と云っていたが、…
1958年1月19日。僕は、この町へ来て、いよいよ、第二段階の生活に入った。準備段階、保留の時代は終わった。
1958年1月20日。午後、図書館で「小説の問題」。つかれると眼をあげて窓の外を眺める。……こうした(筆者注:『魔の山』が念頭にある)神業への奉仕が、本質的な、生産的な、いいうべくんば、倫理的な美的生活なのであろう。
1958年2月15日。リュクサンブールのクロッカスを見にいった。

「序文」より。

「私が「絶えず書く」ということを自分に課したのはいつ頃からであったか、いまは正確に記憶はない。ともあれピアニストが絶えずピアノをひくように、自分は絶えず書かなければならない」

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このごろは、月刊ALL REVIEWS対談に出演された島津有理子さんのオススメで、神谷美恵子の『若き日の日記』を読み始めた。素晴らしい。私は日記を読むことがかなり好きらしい。

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