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【贅沢】自然の中でにぎりめしを食べることは贅沢だろうか?

 野良仕事の合間に木陰で心地よい風に吹かれながら、自分の育てたコメで作った大きなにぎりめしを頬張る。自家製の梅干しや佃煮がおかずだ。弁当の包みは山で採ってきた竹の皮。周りに広がるのは山や川、草原。そんな風景を都会の人が見たら「いいなあ、最高の贅沢だ」と漏らしそうだ。

 贅沢という言葉を辞書で調べると「必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使うこと。金銭や物などを惜しまないこと」とある。これをさらに強めて「贅の限りを尽くす」と言い換えれば、豪華絢爛たる邸宅や調度品、食事、衣服、装飾品、高級車などが頭に浮かぶ。それらはまさに辞書に書かれた通りのイメージである。しかし大きなにぎりめしはごく質素な食べ物であり、決して必要な程度を超えてはいないし、金銭を惜しまずにつぎ込んでいるわけでもない。周りの風景を眺めるにもお金はかからない。それなのになぜ贅沢という言葉が人の口をついて出るのだろうか。

 贅沢と言うからには特別であることは間違いない。この場面の何が特別かと言えば、都会では得難い体験をサラリとやってのけていることであり、その体験がたまらなく魅力的に映るということである。雄大な自然の中で汗をかいて働き、腹ペコになってにぎりめしにかぶりつくのは確かに一般的にはなかなかできない体験だ。質素ながら大きなにぎりめしがこの上ないごちそうに見えるのも無理はない。お金はかかっていなくても、この風景が成立するまでには間違いなく大変な労力と時間がかかっている。これを目撃した人はそのことを察したからこそ、そんな苦労の賜物を贅沢だと感じ、素直に表現したくなるのだろう。

 当の本人にとってはこの風景はごく普通の暮らしの中の一場面に過ぎず、苦労とも思っていないから「贅沢? どこが?」となるのだが、人の価値観は多様であり、そんな普通の暮らしに大きな魅力を感じる人もいる。贅沢とはお金の問題ではなく、ごく身近にあるということを忘れないようにしたい。

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