自由と向き合う戦略として、ルーティンで律するという案

例外を認めない

ルーティンを継続するというのは成果を得るための効果的な手段ですが、効果的である上にやるのは簡単、と都合よくはできておらず、多くの方にとって実践が難しいものでもあるのではないでしょうか。

この解決法というかコツとして、昔の同僚がSNSか何かで、

- ルーティン継続のコツは、例外を認めないこと。
- 「今日はxxxなので、やめとく」みたいに例外を一度認めると、xxxの範囲が際限なく広がり、いつの間にか原則と例外が逆転する。
- だから、近視眼的に費用対効果を考えると「やる」よりも「中止する」の合理的に思えるような状況下でも、意地でもルーティンを守り通す。

みたいな趣旨のコメントをしており、これに膝を叩いた記憶があります。

ルーティンβ実践

と、大きな釘(のつもり)を刺したうえで、ヘヤンは育休期間のルーティンとすべく1週間の時間割(枠)を作っています。
(その内容についてはまた別の機会に)

サラリーマン生活に比べると、時間の使い方に対する裁量が極端に大きくなったので、まず律するものがないことの不安、ともすればネットサーフィンと育児で1日が終わってしまう危険にされされているという実感があったかた、という側面もあります。

といっても、もし時間割で律するか場当たり的に動くかの2択しかないような気もするのでそれ自体は大した話ではなくて、問題はそれを継続できるのか、という点です。

βテスト結果

この点、実は今すでに数週間ほど運用しているのですが、結果、恥ずかしながらやはりなし崩し的に時間割はどんどん崩れていっております。もう自分の弱さが情けなくなります。

そこでこの一連の取り組みを見直してみました(早いんですが)。鋭いアイデアに膝を叩き、これ以上ないと思えるようなコツを理解したにもかかわらず、できないとはどういうことか。

この点、時間割が崩れていく瞬間に感じた崩壊の原因はわりとクリアで「意地でもやる」には、そのやることの価値に対する強力な思い込みが必要なのに、自分の性格(信じる力が弱い)的にすぐそういうのを疑ってしまって終わる。です。

そして、信じる力が弱いついでにもう一つ疑うと、そもそもルーティンって必要なのでしょうか。

代替案

上述したようにもともとルーティンの必要性について深く考えたわけではなく、自由に対する恐怖に背中を押されたという面が大きかった。また代替案である場当たり的に動くという戦略も、考えた結果悪いと決めたわけではなかったんです。

場当たり戦略を考え直してみると、これはそのときにやりたいと思ったものをやるのだから、ルーティンとは逆に自分が信じたものをしていることになります。ルーティンがいわゆる外発的動機づけだとしたら場当たりは内発的動機づけともいえるかもしれません。

また場当たり戦略はエネルギーをより多く注ぎ込める一方で、弱点はベクトルに秩序がなく、どこに向かうのかわからない、というものになるでしょうか。ただ、これはまさにスティーブジョブズのconnecting the dotsを連想させ、どうせ色々な経験は創発的に何かにつながり、そこで何が起こるかは予測できないものなのだから、時間割ポートフォリオ戦略なんて気にする意味はない、という声も多く聞こえてきそうです。

まあルーティンで結果が得られるのはそうだと思うのですが、予定外に興味を持った場合にルーティンを破って新しい興味対象にとりかかるのは、否定しなくてよいのかと思います。そしてここには一方で「ルーティンのコツは例外を認めないこと」という真理があるため、両立はかなり難しそうです。

そこで、時間割は備忘的に残すものの、ルーティンの堅持は忘れて運用はもう迷いなく能動的に場当たり(その時信じたものをやる)戦略ですすめてみようと思います。メタ的にいうとその戦略が今信じた戦略だからでもあります。

はい、というわけでこのエントリは最終的に、ルーティン信仰ってそんなに価値あるの?という問題提起、になりました。引き続きよろしくお願いいたします。(この文章も場当たり的ですね)

今後も記事の有料化は考えておりませんので、もし本noteを相当気に入っていただけました場合には、誠に恐縮ではございますが投げ銭などいただけると執筆継続の可能性が高まりますので、何卒よろしくお願い申し上げます。