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あんま舐めんな


 ひまだからなんか書いとくか。

 人が死ぬと悲しい理由はなんだろうとたぶん中学生くらいの頃からずっと考えていた。その長年の疑問は最近、あっさりと解決した。わたしはたっくーTVれいでぃおというYouTuberをもう5年以上好きなのだけど、彼が死の話題を動画で取り上げたときに(どんな動画やねんと思われるかもしれないんですが本当にそういう動画です)、「身近な人の死は多くの人にとって喪失体験であるから」と言っていて、「あ〜確かに」と瞬間的に、簡単に腑に落ちた。喪失体験という言葉が今まで探してきたどの表現よりも一番しっくりきたというのが正しい。

(動画のリンク貼りたかったんだけどどの動画で言っていたか忘れてしまって探し出せない。上記のやつとたぶん同じ動画で「死は誰にでも訪れるものだからある意味では好きな人にフラれるよりありふれた現象である」って言ってたの、パワーすぎてめちゃくちゃ笑った)

 人の死は多くの人にとって喪失体験であるし、もっと言えば悲しみの本質は喪失感だとこのとき思った。
 極端な例えかもしれないんだけど、仮に宝くじが当たったら当然嬉しいと思うんです。だけど、もしもその宝くじが当たった直後に肉親や配偶者などの大切な人が死んでしまったら、宝くじが当たった喜びってチャラになっちゃうと思いませんか?
 順番が逆だったらどうだろう。大切な人が死んでしまった直後に宝くじが当たったとしても喜べないですよね? 「宝くじ当たったからまあいっか」とはならないですよね? 
 たぶん、何かを失って空いた穴は同じものを取り戻すことでしか埋まらない。喜びより悲しみの方が人を引っ張るエネルギーが強い理由はそこにある気がする。
 また、喜びと悲しみは正負の関係にはなく、それぞれ性質の違うまったく別の概念であるのかもしれない。
 先述の通り悲しみ(=喪失感)は失ったものを取り戻さない限り続くものだ。つまり慢性である。一方で喜びとか幸福感は一過性であることが多いと思う。多くの人間は一度満たされてしまうと同じものでは満足できなくなる。喜びは一度食い尽くしたらすぐニュートラルに戻る。食い尽くして見えた底に、埋まらない穴が空いていればまた悲しみが覗く。もしかするとせっかく注いだ喜びが、知らず知らずのうちにその穴から流れ出てしまっているかもしれない。

 言いたいことまとまってない感があるな。つまり何が言いたいかというと、悲しみはいつまでも心に留まり続けるが喜びはすぐにどっか行っちゃうということである。


 わたしは介護士なので人の死に直面することがとても多い。多いんだけど、勤め先の利用者が亡くなって悲しいと思ったことがあまりない。人の死を軽んじているつもりは当然ないし、介護士を名乗った上でこんなこと言うのは倫理が問われるような気がするけど、勤め先の利用者が亡くなることはたぶん、わたしにとって喪失じゃないからなんだろう。さすがにベッドの上で亡くなっているのを一番はじめに発見したときは堪えたけれども、それは喪失感とは別の反応だった気がする。
 居なくなって寂しいな、くらいは思うんだけど、懇意にしていた人が引っ越していってしまったときのような感覚が近い。それについて、自分の心がとても冷たいものに感じてちょっとしんどいときがある。でも、その人の人生の最後にちょろっと関わっただけの小娘がびょおびょお泣くのもなんかちょっと烏滸がましくないですか? 勝手にその人の人生に参加した気になっているようで、それはそれで冒涜的なんじゃないですか? だからせめて、亡くなった人の部屋の前ですこし長めにお辞儀をして最後の挨拶をするようにしている。亡くなった側の人からしたら、お前は誰や? おれの何なんや? と思われているかもしれないんだけど。

 こんなことを考える一方で、わたしは自分とはほぼ無関係の場所で起こった出来事でひどく落ち込むこともある。
 毎年この時期になると、川で遊んでいた小さい子どもが流されて、それを助けようとしたお母さんまで流されて亡くなってしまった、みたいな事故がニュースで取り上げられたりするじゃないですか。あれがとっても辛い。
 たぶんこれも喪失感が発生するのとはまた違う心の部位が反応していると思うんだけど、「親子が亡くなった」っていう事実が悲しいんじゃなくて、子どもを必死に助けようとしたお母さんの気持ちとか、お母さんが助けてくれると信じたまま死んでいった子どもの気持ちとかを想像して泣いてしまうことが多い。これはたぶん喪失感じゃなくて「共感」だ。
 あ、介護現場でもわたしはそうかもしれない。利用者が亡くなること自体を悲しむことはあまりないんだけど、最期を見送った家族の方が悲しむ様子とか、必死に声をかけている姿とか、そういうのを見て泣くことはけっこうある。これも共感だと思う。

 そういえば巷で噂のMBTI診断をやった。普段こういう性格診断はやらない。なぜなら嫌いだから。この世に存在する性格診断にわたしはいつもだいたい同じことを言われる。「メンタルが弱い」「繊細」「向いている職業は芸術家」など。
 診断にすら悪口を言われている気分になってしまいとても不愉快なので嫌いなのだが、最近ハマっているYouTubeチャンネル「板橋ハウス」の生放送ログ内で視聴者からのリクエストでMBTI診断をやってみようというくだりがあった。特に吉野さんのことが好きというか、わたしと吉野さんは共通点多く(ADHD・母子家庭・HIPHOPが好きなど)なんとなく親近感を覚えている。これでもし性格傾向も一緒だったら嬉しいな……というファン心理でやった。(痛いファンだ…)
 結果、わたしの性格タイプはINFP(仲介者型)いうやつだった。MBTI診断に詳しい人はピンとくるかもしれないが、調べたところいわゆる""""一番面倒くさいタイプ""""っぽかった。(SNSでINFPを自称しているアカウント、ちょっとしんどいアカウントばかりだった) しかもINFPをGoogleで検索すると「頭おかしい」が関連ワードの一番上にサジェストされる。頭がおかしくて本当にすみません。INFPを代表して謝罪申し上げます…

 案の定、特徴として『精神的に脆い』だの『メンタル不安定』だの『繊細さん』だのといった言葉がデカデカと記されている。うるさい死に散らかせ。読むのがつらくなった。やはりと言うべきか向いている職業の欄に『芸術家』『小説家』『音楽家』の三拍子が揃っている。これって「あなたにはクリエイティブな才能があります」って意味じゃなくて、「あなたは人間社会に属することに向いていません」って意味だと思う。バカにしやがって。その通りですが。
 しかもこのタイプは全体の4%程度しかいないのだそう。つまりわたくしがメンタル激弱人間の最精鋭でございます。
 ほかには『共感能力が高く人の感情に影響を受けやすい』とか『想像力が豊かである』とか。ほとんどの項目がまあまあ言われ慣れているヤツだし、先述の通り確かにそうだという自負もある。『人一倍優しく、傷ついた人を慰めるのが得意』というのだけは違う。なぜなら人が嫌いなので。すべての人間が傷ついていようがどうしようがわたしには関係ないと思っている。
 繊細さんとかいう呼称も嫌い。メンタル弱いわりにある日突然破滅衝動で大胆かつ豪快なトンチキ行動に出ることもあるし、そちらのほうが社会にかける迷惑の量は多いと思うんで、豪快さんって呼んでください。

 ちなみに吉野さんは討論者タイプ(ENTP)とのことなのでわたしとは全く違いました。診断結果に傷つけられただけで終わった。人生に絶望がひとつ増えただけだった。

 これは一昨日発生した破滅衝動を処理するために食った激辛もやしラーメン。ちなみにヒプノシスマイクのドラマトラックを聴きながら食べました。

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