・遺230823
囂々たる非難のなかで、悖徳無慙の姿勢を貫き、終わりゆくこの老いた世界に別れを告げる。現代に飽いた私は、幻想の退廃のなかに浸りながら現世への憎悪を掻き立てる。
かの忌むべき箱庭から逃れて、幾星霜がながれた。日々、索漠たる気持ちに襲われながらも、倦怠に裡に、夢遊病者のように己の中に沈湎して行く。私の体躯と精神は劫掠された。誰にか、私自身にである。
己の中の夾雑物の一切を取り除き、真なる恍惚を希求する。現代の資本主義的マゾヒズムに飽いたため、宗教的マゾヒズムに身を浸す。
食傷した精神は二度とは癒えることはない。エスプリの退廃は不可逆なもので、一度、廃れ始めると終端なき深淵に取りつかれる。‥‥
残念ながら、ユイスマンの翻訳本は「さかしま」のほかは普及していないようだ。ユイスマンを嗜むというより澁澤龍彦の文章に触れたいというのが本心なのだ。
結局のところ、訳本を読むということは、いかに原文に忠実であろうと、翻訳者の作品を読んでいるに等しく、原文の価値はその翻訳者の技量に左右されてしまうものなのだ。
昔、翻訳不可能性というベンヤミンか誰かの論考を読んだが、文筆家の表現は彼らが生まれた国、文化、時代に大きく依存するため、彼らと時代を隔する私たちとの間の真なる対話は不可能であるように思う。
癩患者の傷口に接吻し、わざと病毒に感染し、それによって生じた潰瘍を”薔薇”とよび慈しんだらしいが、貴族の暇つぶしもここまで行くと称賛に値する。中世の宗教的マゾヒズムは現代的マゾヒズムと比べると高貴でデカダン的だ。日常生活にマゾヒズムが横溢している現代では、あえてFlagellantのように体躯を鞭でしばき、血しぶきをあげながら外を出歩く必要がある。それにより、隠匿されたマゾヒズムを認知することができるのではないか。
噴火獣(キマイラ)、水波精(ニンフ)、半陽半陰者(アンドロギュヌス)、暈影作用(ハレーション)といったルビ文化は結構昔からあるらしい。
・J. K. Huysmans ≪À rebours≫ 原文はwikisourceで読める。
・J. K. ユイスマン「さかしま」澁澤龍彦訳 河出書房
日本語の普及版として河出書房から澁澤龍彦による訳本がある。