特定されないSNSならいいのか?

私の今までの生き方は不特定多数の1人間というスタンスだった。強いてあげるなら、女性・SEくらいのステータスや趣味レベルの開示はしている。年代もまあ推測可能か。

たぶんそれはずっとこういう価値観で生きてきたからだ。
「インターネット・SNSで個人が特定されるような発言をしてはいけない」
「個人が特定されると悪いほうにたたかれがち」
「特に中高・大学のいきった(あるいは若さ特有の違法すれすれの)投稿がほりかえされてはいけないから、SNSを本名ですべきではない」

でも、約1年くらい細々とではあるが、こういうアウトプット・自己表現のかけらを、できる限り嘘をつかずに出すようになった。その中で、少しずつその壁が崩れていき、逆に今では前述の価値観に違和感を持っているのではないかと考える。

今だから素直に言えるが、初めて登壇したりPodcastに出たりしたとき、自分の生の情報(外見・声など自分を偽れない情報)が外に出ることが限りなく怖かったのは事実だ。知人に特定されるかもしれない、特に現職批判と採られても仕方がない表現が知人の目に触れることで、意図しない不利益を受けるのではないかと。あるいは、デブサミに出たとき、絶対誰かに特定されると思って、どうしたものかという葛藤は常に付きまとっていた。まあ結局だれにも直接声をかけられたことがないから、今まで付き合ってきた人間はそういう人たちじゃなかったのだろう。

でも、そういう「生き方」がすごく嫌だった。見えない何か(あえて言うなら世間の風・会社の不利益みたいなもの)におびえる自分、自分として発言することに壁を感じる自分。そこにおびえるより、自分は自分でありたいと思った。たしかに、発言には批判が付きまとうかもしれない。でも、その批判が真っ当であれば謙虚に受け入れればいいし、云われないバックグラウンドに及ぶのであれば、守るなりしかるべき手段をとればよいのではないか、そう思う。逆に、自分の発言に賛意を示してくれる人・理解を示してくれる人を大事にする自分でありたいとも思う。(だからといって、同調する人で集まることとは別である)

とはいえ、確かに気を付けるレベルもあるだろう。写真を不用意に上げることで、生身の自分(あるいは家族などの大事な人)に危害が及ぶ可能性はもちろんある。批判ではなく「悪口」「ほかの個人情報の流出」であれば、それは自分が守られなくなることになる。

TwitterレベルのSNSで本名を出すこと(あるいは本名とすぐに紐づけられる状態であること)は、ただの目立ちたがりなのか?不用心なのか?たぶんそうじゃない。これからの世の中の自律した生き方を目指す人の流れだと私は信じている。むしろ、匿名だからこんな発言をしていい、本名だからこんな発言をしてはいけない、それは問題のすり替えではなかろうか。

未熟なころのSNSの発言を掘り返して、あげつらう人と付き合いたいか?そうじゃない。これから実現したいこと、そのために今していることに集中している人と付き合うために、SNSを使いたい。だからといって、私が本名を今晒しますかといえばまだそれを選ぶ段階ではないという答えになってしまうのだが、でも自分の発言に対して自分でおしりをぬぐえる人でありたい。(酔っぱらって不可解な発言を連投するくらいはともかくとしてw)

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