柔術は見る側の想像力を求めるなあ

柔術は見た目上地味な展開である、
見る側よるやる側の立場に立った試合になる、
というのは、よく言われていることのようで。

やってみて思ったけど、
そりゃそうだよなあ、という感じである。

空手や柔道における「一本」というのは、
相手に致命打を与えたという意味を指す。
そして、それに準ずる一撃を加えられればポイント。

柔術は、致命打を与えたというのとは空気が違う。
「致命打を防いだ」ことをカウントする競技なのだ。
致命打を与えればもう危険はないわけで、
結果として防いだことになるというだけ。

つまり、柔術には致命打を打たれるシーンが基本的にない。
極めて勝てばそりゃ致命打なんだけど、タップにより具現化せず終わる。
それ以外は、致命打を受けないための攻防が続く。

ポイントが入るのは、致命打のリスクを防いだとき。
逆に言えば、ポイントが入らない状況は、リスクがあるということ。
ああこれは殴られてるなあ、というのは、想像するほかにない。

「致命」と「制圧」の差と言えばいいのかな。
だから、柔術的な戦い方で負けると相手は消沈するのだ。
致命はラッキーパンチでいけるけど、制圧はどうにもならないから。

これが、試合運びが地味になりがちな理由だ。
試合で行われている延長線上の攻防を想像すれば、
ものすごくスリリングなものなはずなのである。
ただ、そこは表現されず、想像に任せられている。

致命打を具現化しないという競技システム。
だからこそ老若男女に推奨できる競技となる。
反面、試合としては演出が難しい。
柔術を楽しむには、このイマジネーションが大切なのだ。

私は総合格闘技の1コマとして、柔術に取り組んでいる。
打撃も関節もテイクダウンもやるわけだが、
いずれのスパーリング中にせよ、私はよく喋るらしい。
「今のは食らいましたね」「ガード甘かったですね」
など。何が起きたかを口にして、区切りながら組み合っている。
これが傍目に見ると不思議なのだとか。

これはイマジネーションの世界の話になるのだが、
それが試合ならダウンかもしくはノックアウトされているし、
それがルールの外なら、壊されるか殺されるかしているのである。
そしてそのイメージを相手と共有している。

マスに近くなればなるほど、この想像力が重要だと考えている。
想定練習で、想定しなきゃ意味ないじゃん。

だから私は、やればやるほど柔術が面白い。
ああここで今俺しんだな、こわされたな、
そういう想像力を駆使して攻防に取り組むのだ。
これがスリリングでなくして何だというのだろう?

打撃では、まだ動きは固くリーチも使い切れていない。
けれど、狙いは常に相手に向けているつもりだ。
それはやっぱり、日ごろの練習の動きの差だろうなと。
常に想像力を働かせ、目前に仮想の相手を投影しているから。
それが正確かはともかく、見えてない人との差は絶大だろう。

格闘技にせよスポーツにせよ、他の実技系趣味にせよ、
どんなものであっても、イマジネーションは大切だと思う。
これが高まってくれば、基礎練習ですらワクワクできる。

プロ選手の方がサンドバッグを蹴るシーンを拝見させて頂いた。
やっぱり、相手の像が見えるのよね。それもクリアに。
ああ、この人はもっともっと、リアルに見えてるんだな。

そういう方の見ている景色を、私も見たいなあ、
私のやる理由というのは、案外とそんなところかもしれない。

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