『ロッホ』
「くそったれくそったれ!」
夜の到来を告げようとする夕闇の中、沿岸警備隊ビル・マーティンはひとり毒づく。
「ヒッ」
誰かの短い悲鳴、直後にパキパキという嫌な音。
ビルは悲鳴の主が誰なのかを考えないようにした。
息を潜め物陰にうずくまる彼の目の前、苔と泥に塗れた巨大なホースのような物体がずりずりと這っていく。
あれがのたうつたびに、誰かが1人死ぬ。
『観光クルーズ船の衝突事故』との一報を受け救助に向かったビルたちを待ち構えていたのは、”ヒトの欠片”が散らばった甲板だった。
救命ボートに駆け寄る女性。生き残った乗客だろう。
(やめろ)恐怖に押しつぶされ声にならない。
”ホース”が襲い掛かる。
その先端がまるでピンセットのように女を摘み、振り上げ、甲板へ叩きつける。
ぐしゃり。ぐしゃり。真っ白なワンピースが鮮血に染まっていく。
何度か繰り返したのち、”ホース”は女性を飲み込んだ。
ビルはこれがホースでないことを理解している。
先端はスプーンのように膨らみ、二股に裂けた断面には無数の牙が並んでおり、もう片方の付け根は湖面に浮かんだ巨大なラグビーボールめいた胴体につながっていた。
───首長竜。
この湖に携わるものなら誰もが知っている遥か遥か昔の生物だ。
だが、土産物屋も観光客も、そんなもんが本当に現代に生息しているなんて本気で思っちゃあいない。
もちろんそれはビルも同じだった。
だが彼は見てしまったのだ。
その長い首に焼き印がされているのを。
【Loch Ness Tourism Association sample13】
(ネス湖観光協会 サンプル13号)
「へ?へへ...」
乾いた笑い。
次の瞬間、観光船から少し離れた位置で大きな水音。
湖面から何かが鎌首をもたげる。
それはビルが子供のころ、ワクワクしながら見ていた”あの写真”によく似ていた。
【続く】
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