小説「プリーズ・ルックバック」
背広の皺が目についた。背中の真ん中から右端にかけて、大きく折れ曲がったような跡ができている。顔を上げると知らない男性の刈り上げた後頭部が見え、その首筋に汗がツーッと一筋流れ落ちた。私はそこで自分も汗をかいていること、そして、電車がもう数十分も来ていないことにはっと気がついた。
広いはずのホームはおびただしい数の人々でうめつくされていて、地面もろくにみえないほどだった。列は一応形成されているが、奥の階段は並びきれない人たちで溢れている。私は鞄から水筒をだして、中に入った残り少ないアイスコーヒーをぐっとあおるように飲みほした。すると、もう他にやることがなくなってしまった。鞄を探ってみたが、トートバッグには他に財布と、携帯と、スケッチブックしか入っていなかった。スケッチブックは三分の一がレシートを貼るのに使ってあり、残りは白紙で、筆記用具はインクのでないボールペン以外何もなかった。
ピンポンパン、と明るいチャイムが鳴った。
「現在、人身事故により遅れが生じています」
乗客は誰も顔を上げなかった。そんなアナウンスはもう何十度めかで、こんなに来ないのだもの、少々の点検や一時停止が原因のはずもない。
私は仕方なく携帯を取りだして、画面をみつめた。すると、タイミングよく着信がついた。ディスプレイには「ヒロト」とあった。
ヒロトは甥で、前衛的なダンスを踊る少年だった。何度か見たことはあるが私にはさっぱりで、ただしなやかによく動く身体をじろじろ眺めて、すごいね、と言ってやるのがせいぜいだった。彼のダンスは高く評価されているらしかった。どこどこの賞を獲ったと言って、彼はときどき無邪気に電話を寄越した。大抵は褒美目当ての、なんとも子どもっぽい用件だった。
「もしもし、今大丈夫ですか?」
電話を耳に押し当てると、ヒロトはいつも通り親しげな声で、しかし慇懃無礼にそう尋ねた。
「うん」
「後ろ、人の気配感じますけど……」
「ああ、今、駅なの。でも人身事故で電車が止まってて」
「そうですか」
「だから、もしよかったら話し相手になってよ」
「ぼくでよければ」
少年の声がそのときだけ急に妙な色っぽさを帯びたものだから、私はついおかしくなって笑った。ヒロトも照れたように笑い返した。
「災難ですね。事故って、いつ起こったんですか?」
「さあ、いつだろう。結構前なんじゃないかな」
「へえ。あっ、これかもしれない。今見てたら、電車で悲鳴が聞こえたって投稿してる人がいましたよ。数時間前に」
「そうなんだ。じゃあ、それかもしれないね」
彼が言うのはきっとSNSの書きこみのことなのだろうけれど、そういうものとはとんと縁のない私には、まるで地球の反対側が急に繋がったように感じられた。椅子の背もたれがカタンと鳴る音が遠くに聞こえた。
「人身事故って、なんか不思議じゃないですか?」
ヒロトはたった今重大な問題を思いついたかのように、ふっとそう切り出した。
「悲鳴が聞こえたっていっても、その悲鳴って事故に遭われた方のじゃないですよね」
「ええ。目撃者のでしょう、おそらく」
「一番痛い思いをした人の声は誰も聞いてないって、変な感じがしませんか?」
「言いたいことはわからないでもないけど……でも、当たり前じゃないの? なんと言えばいいのかな。事故であって事故ではないことが多いんだろうから」
「だからこそです。悲鳴が聞こえなかったから死んだんだ」
ヒロトははっきりとそう言った。私は返答に困って、少しの間逡巡した。
「悲鳴ってべつに、声だけのことじゃないんですよね」
電話口の向こうで、ヒロトは吐き捨てるように言った。
「ぼくは、自分の悲鳴が新聞の一面に取り上げられるようなものでなくてよかったと思ってますよ。そんなの偶然じゃないですか。暴れるか踊るかなんて」
「何言ってるの? 偶然なわけないでしょう」
「そうですかね? ぼくは生まれ変わって人を殺さない自信なんてないですよ。自殺しない自信もないです。今回の人生はたまたま、そういうことをしなくてすんでいるだけです」
「だったら殺人も偶然だって言うの?」
「言い方は悪いですけど。責任はもちろんあるんだから」
「……何が言いたいのかよくわからない」
「ぼくだって同じように歪ってだけの話ですよ。声をあげられなかったら、他になんとかするしかないでしょ。でも、その他の道って、単に、何を見つけられるかじゃないんですか。平和的な道を見つけたぼくはラッキーですけど、もし破壊と暴力しか見つけられなくて、それ以外の可能性を教えてくれる人も周りに誰もいなかったら、そんなに悲しいことってないでしょう?」
ヒロトの声は怒気を含んでいて、しかし徐々に悲しみを帯び、最後のほうはかすれていた。まるで前世の言い訳をしているみたいだと思った。私の脳裏にヒロトの姿が浮かび、彼が血に塗れて立っている姿が浮かんだ。彼は包丁を持っていた。暗い部屋の中には彼しかおらず、彼は肩で息をしながら、壁のしみの一点をじっと見つめていた。私は目を瞬かせた。脳の真ん中の水槽が大きく左右に揺れて、幻はなんでもなかったみたいに消えた。
「すみません。なんだか熱くなっちゃって」
しばらくして、ヒロトは静かに言った。先ほどとは打って変わって、子どものような謝罪だった。
「ううん」
「そっち、まだ来ないんですか?」
「まだみたい」
「早く来るといいですね」
「そうだね」
そのとき耳の奥でキーンと鋭い耳鳴りがして、一瞬、音が途切れた。ヒロトは声を発していなかったようだから、何も聞き直す必要はなかった。
耳鳴りが治ると、私は私でなくなっていた。別の人生を一生ぶん体験して、今ここに舞い戻ってきたようだった。
「……実は、人身事故って私なんだよ」
私がそう言うと、ヒロトはえっと戸惑いを漏らした。
「何を言ってるんですか」
「本当はそうなの。だから列車が来ない」
「おばさんがそんなことする必要はないじゃないですか」
「きみは私の悲鳴を聞いたことがあるの?」
ヒロトは黙った。それから絞り出すように、すみませんと言った。
「いいえ。私もダンスわからなくってごめんね」
「いいんです。そういうものだから」
「諦めてるの?」
「ある程度はね」
私はかつて見たヒロトの踊っている姿を思い出そうとした。今度はうまく描けなかった。昔のアニメのような画質で踊るヒロトは、おぼろげな記憶の中で、たった一人、彼だけが生きている人間のようにかがやいていた。
「あーあ、こんなに待ってる。私のせいで悪いなあ」
私が笑うと、ヒロトも笑った。
「気に病むことじゃないですよ。誰も原因なんて気にしてないし、明日になればどうせ忘れてしまうんですから」
「そうかもしれないけど」
柱時計の針が進む。列車はまだ来ない。自分が待っているのかどうかもわからないくらいだった。私はただそこに立っているだけなのかもしれなかった。
そのときは唐突に訪れた。チャイムの音が変わり、アナウンスは列車が前の駅を出発したと言った。ヒロトにもその声は聞こえたらしい。向こう側でほっと息をついたのがわかり、私はとっさにたまっていたわずかな唾を飲み下した。
「私、声があげられなかったわけじゃないの。私も叫ぶには叫んだつもりだった。でも、他の人には聞こえない音だったみたい。もしくは聞きたくない音、聞く必要のない音だったのかも」
私は言い訳するみたいに言った。私の声を遮るように、扉を開けたような突風が吹いた。ざわめきは増え、人々は音を持ちはじめた。音の隙間で深呼吸をした。
「よかったね。きみのダンスは素晴らしいから」
私は目を瞑り、喧騒のひとつひとつを拾い上げるように耳をすませた。しかし何も聞こえなかった。そこに意味はなかった。ただ残像として残ったビル群ばかりがきらきらと眩しかった。
「私が描いても、誰も振り向かなかったのよ」