#10 なにが失敗だったかなんて今さらわからないけれど
~ここまでのあらすじ~
叔父が経営する工場。事業継承問題には、突然会社に来なくなって2年たつ一人息子(=いとこ)の存在があった。引きこもりになったいとこを「私」と「姉」は救出しなんとか実家に戻すことになったが、それで解決というわけではなかった。不労の息子。宙ぶらりんになったままの後継者問題。
姉と私はこれまでのことを反芻し、これから自分たちになにができるのか、親子と会社の望ましい未来はどうあるべきかを考えていた。
在籍した5年間
これは姉から聞いた話の範囲にはなるが社長は「まずは現場がわからないとダメだ」と言い、息子を機械仕事に従事させた。それ自体は当たり前の考えなのだが、この当時はまだ息子のADS特性を理解していなかったこともあり
”適材適所”とは言えなかったのかもしれない。(もちろんほかの業務が最適だったのかどうかも今となってはわからないが。)
作業着が着られない、素手で触れない、備品の置き方や道具にもこだわり、「こうやれ」と言われても自分のやり方にこだわるので衝突しただろうし、
周りとしてはなぜ素直にやれないんだという苛立ちしかなかっただろう。
しかもそれが単純な”わがまま”ではないことは周囲には理解されないまま。
入社当初は社長が外部の知人に頼んで、社長になる心得(帝王学)的なものを指南してもらったりもしたようだが相手からすぐに匙を投げられた。「彼はどうにもなりませんね」と。これはさすがに社長もショックだったようで、その後の親子衝突の原因のひとつになったらしい。(まともに働いたこともないスネカジリに急にそんなことをしても土台無理な話なのに。)
姉は「まず電話をとるとか社長に同行して名刺を渡すとかそういうことからやってはどうか」等、いくつか思うことを提言したというが社長はいっさいとりあってはくれなかった。(まるで息子を紹介したくないような感じだったという。)
そして実際に姉が事務的な仕事をやらせてみたこともあるにはあるが、あまりの要領の悪さに辟易し、内心、これではよそで一般的なアルバイトをするのは無理なレベルだと感じたという。
また、実はこの当時、莫大な借入れをし最新機械を導入するタイミングで、これを担当する人員に困っていて、そこへちょうど息子が勤務することが重なり、まさに”渡りに船”だったそうで。後継者はさておき、まずこの機械をやれという流れになったらしい。それ自体にも普通に考えれば問題はないのだけれど、就労経験のない息子が他の誰にもわからない機械の担当となり、毎日のようにメーカーの相談室に電話していたというのだから新人の彼にもそれなりの苦労はあったに違いない。
結局、在籍した5年の間ポジションチェンジはなく、取引先に紹介するでもなく、社内でも”跡継ぎ”という明確なアクションも立ち位置もないまま、
社内の従業員にもおそらく冷ややかな目で見られながら、息子はいち従業員として日々を過ごした。(と少なくとも私には思える。)
振り返ればこうしたいくつもの負の状況が各々の上に重なっているのではないかと思う。
もちろん悪いことばかりではなかっただろう。
やる気に満ちていた日も、笑いあった日も、達成感があった日も、
事業継承の話だってまったくなかったわけでもないだろう。
しかし結果は失敗に終わった。彼は突然いなくなったのだから。
姉からみた社長息子の問題点
このような話を聞き「受け入れ態勢の方に問題があったのではないか?」と私が指摘すると姉は「それは違う」と話した。
姉曰く、
・最初からやる気があるようには見えなかった
・お金が底を尽きほかに働ける場所もないから来ているという感じ
・論文を書きたいと言って平日1回の休みをどうしても譲らず、その点では社長が仕方なく折れていた
・だから息子の方にこそ問題が大きいと思う
姉は彼が会社に来なくなってから、どんな論文を書いているのか一度読んでみる機会があったそうだが、内容は中小企業経営の問題点(批判)で、自分が立場上知りえる、見たり聞きかじったりしたことを利用するだけして机上の論理で偉そうに語っているだけ。「働いたこともないくせに」と腹立たしくなるものだったそうだ。
そしてそれを読んだ後にこう告げたという。
「そんなに勉強したいなら、論文書きたいなら、大学院でもなんでも受ければいいじゃない?本気なら道を探しなよ。口だけじゃなく本気を見せたら、親だってわかってくれるんじゃないの?!それもしないで働かないなら誰も理解してくれないよ?!」
正論である。まったくの正論である。
正論には押し黙るばかりの彼だが、この時はこんなことを言ったという。
「いつか死んだ後に論文が認められれば僕はそれでいいんです。芸術家だってそういうの多いじゃないですか。僕は芸術家みたいなもんなんですよ。」
これには姉は言葉を失ったといい、結局、なにもかもが、逃げの口実としか思えないから腹が立つんだと激怒していた。
私はその論文とやらを読んだことがないので内容はわからないが、たしかに彼にそういう節(わかったような口をきく)があると思うし、やっていることはなにひとつ評価も理解もできる点がない。
7年前なら可能性がまだあったのかはわからないが、時すでに遅し。
事業継承の選択肢として私の”推し”は社長の息子一択だったのだが、
もう手遅れなのかもしれないと感じた。
社長側の問題点
一方、経営者である社長にも多くの問題があった。
ワンマン社長が陥りがちな「傲慢」「怠慢」「独り自慢」はとっくのとうにフル装備済み。(詳しくは#8うちの社長はスーパーマンの記事)
他人との耳障りのいい話を好み、身内の話にはまったく耳を貸さない。
そんな社長の心底の本音はわからないが、もし息子を後継者にという気持ちがあったのなら、会社に入った時点からすでに時間との戦いだと認識して、自分がやるべきことに真剣に取り組まなければならなかった。
しかし、社長はこの当時まだ気持ちが若くて、事業継承を軽く見ていたり、自分優先で、悪く言えば、息子をほったらかしにしてしまった。
親子ともに若ければまだやり直しも利くが、すでに30代と60代親子だった。しかも息子には何の経験も才能もないのだから育てるのにも時間がかかる。しかし「時間がない」という現実をきちんと認識できていたのは周りにいる身内だけ、当の社長は聞く耳をもたず、結果、後継者問題については5年を無駄にした。
結局のところ、わたしが思うに、
社長はトップダウンや親族を利用することに慣れ過ぎていて、
肝心なことを忘れていたのではないか。
息子が後継者というのが”既定路線”だと社長が勝手に思っていても、
相手のあることなのだから双方が同じ方向に向かっていないと成り立たないのだ。
そこをちゃんと受け止めてないから傲慢で怠慢になるのである。
後継者の第一候補(息子)を入れたときに、
これはやり直しがきかない「人と人の問題」だという責任と自覚をもち、
計画と準備、本人との十分な意思の疎通、根回しや関係者との共有、
ひとつひとつが大事に進められるべきだったのだ。
自分としては、
社長息子であるいとこは小さい頃から兄弟のように遊んだ仲なので、
どうしても悪くは思えず、
あの5年間に自分がいたら違ったのではないか?
もうどうにもならないものなのか?
非常に残念な気持ちになってしまうばかりだった。