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戦場痕 1-2

 庁舎から出ると、さっそく待ち伏せしていたカメラがこっちを向いた。いかにも内地育ちらしい、肉の薄い顔つきをしたリポータが突撃してきて、「元RAMとして本事件に対する意見をうかがいたいのですが」と尋ねてきたのを、薄ら笑いでかわしながら駐車場のGクラスに乗り込む。
 リポータの女からは強いコロンのにおいがした。何度も香水を振り直せるなんて、マスコミのくせにずいぶん暇しているらしい。

 シートベルトを肩に回したところで、ようやくほっと息をつけた。
 プレス証の無い記者なんて。あんなやつら、戦場だったら真っ先に撃ち殺されている。今でもみんなモドキに見えて仕方がない。
 国道に乗って都心を横切るにつれて、景色は箱型の集合住宅で一杯になっていった。
 ブロック工法の一夜城たちは、戦後の風景を覆い尽くしたように見える。それでも殺しきれなかった戦時の残滓が、今でも川沿いのスラムで段ボールと毛布にくるまっている。
 ぎち、と革のステアリングを義手が軋ませる。
 私が撃破した五十輌以上のAFVと、随伴歩兵。三百人をテレスコープ弾で殺した個人が、ラッキーひとつで被害者の側で語り、敵兵ひとりろくに撃てもしなかった廃兵が恨みを買って殺される。平和というやつは人をずいぶんと過敏に変えてしまうようだ。

 彼の診療所は目黒のマンション街を抜けたところにあった。
 ずらりと並ぶターコイズ・ブルー一色のコンクリート塊を個性付けるために、部屋ごとにオプション代三十万円のバルコニーがくっついていた。エレベータ付き駐車場に回ってみると、ご主人を自宅まで送り届けたトヨタのEVたちが、畜舎のウシみたいに家庭用電源をむさぼり食っていた。そんな中で私のガソリン車だけが窮屈そうにしている。
「福江さんも亡くなりましたか」
 三沢麟治(みさわ りんじ)はキャスタ付きの椅子の上で膝を組んだ。「これでRAMも二人目。彼もようやく寛解の兆候が見えてきたというのに……」
 彼のピンクの芋虫のように動く舌を、私は向かいで脚をそろえて聞いている。
「あなたはどうでしょうか。まだお酒は抜けませんか」
「はい。ここに来るまでにも飲んでしまいました」
「あなたの場合はメンタル面の問題が大きいと思われます。分類するなら抑鬱になりますが、改善にはささいな成功経験を積み重ねることが大事になります。何かご趣味は――」
 彼の芋虫の背にはびっしりと味蕾が並び、あぶくがはじけるたび、言葉が飛び出す。
 この男が福江を殺したことは分かっていた。話すとき、ときおり彼の目が光ることがある。黒い瞳孔の奥底に熾火がちらついて、そういう瞬間、彼は敵意を隠そうともしない。「みんな死んだぞ。なんでおまえは生きてるんだ?」「どうせこっち側におまえたちの居場所なんてない。もう戦争は終わったんだ。さっさと死ねよ」糖衣でくるんだメッセージは、通信暗号と同じだ。復号鍵を持たない者には障りのない表現でも、ある種の経験を持つ者にはくっきりとしたテーマをたたき付けてくる。こいつは、そういった言葉をよく知る男だった。
「あたし、どうすれば良いんでしょうか」
「善人になるのですよ」三沢は微笑んだ。「あなたが信じられる善人に、ね」

 ひと周り大きくなった処方箋の袋を手に提げて薬局から出たとき、携帯電話が鳴った。
 大島からだった。被害者の住んでいた場所が分かったという話だった。
「OK。ちょうど出張(でば)ってるから行ってみる」
「お気をつけて」
「ん、ありがと」
 通話が切れて、ツーと電子音が流れた。私は車に乗り込んで、肩を揉みかけた。
 肩胛骨を押さえた義手は思いのほか強く鷲掴んできた。驚いて腕を見つめていると、唐突に吐き気が襲ってきた。車道に向かって口を押さえながら、さっきの処方箋を投げ捨てた。 

 福江敦人は高松という名義で社宅の二階を借りていた。自分が冷蔵庫に詰められた港湾倉庫でフォークリフトを操作していたそうだ。
「RAMって素性を隠す人が多いですからねえ」
 社宅の管理人はやっと空き部屋を作れるというのでホッとした顔をしていた。警官たちがドアの前からどいて、ジーンズ姿の私を胡散臭そうに見てくる。私が身分証を見せると、お疲れ様ですとつまらなそうに言ってきた。
「だろうね」
「しかしやってられませんよねえ、帰ったらやれ人殺しだの差別野郎だのって。正直ね、吹っ切れて刃物を持ち出す気持ちは分かるんですよ。刑務所の中だって少なくとも世間の声は聞こえませんものね」
「それ、警察にも言った?」
 管理人は穴が空くほど私を見つめた。「いえ」と言い直して、ドアノブに鍵を突っ込む。
 私が部屋に踏み込んでも、彼は入ってこなかった。三和土(たたき)で私が靴を脱ぐとき、こっちを睨んでいる顔がジーンズの股越しに一瞬だけ見えた。さっきのおべんちゃらと比べたらよほど私たちを理解している表情だった。

 福江は少なくとも健康で文化的な生活を送っていたようだった。
 畳張りの床にはワンカップの瓶と未開封のタバコが転がり、その横のゴミ袋には虫がたかった焼きそばの空きパックが突っ込んであった。ダニまみれの万年床にも数日前の新聞が開いたまま置いてあって、まったく、兵隊の生活からラッパを抜いたときの好例みたいな部屋だった。
 水垢まみれのシンクには処方箋が残っていた。フルボキサミン。強迫性障害の薬だ。こいつも最後に開けてからずいぶん経っているように古びていた。

 終わったよ、と外に出て管理人に言うと、彼はさっさと鍵をかけて帰って行った。
 一階の壁に寄りかかってエナジードリンクをすすりながら、最後に会った福江を思い出した。「やっと仕事を見つけたんです」と言っていた。「そろそろカミさんを迎えに行こうと思ってて」良いじゃんと返した覚えがある。酒に弱くて、一杯ひっかけたあとはチェイサばっかり頼む男だった。
「あんた、高松さんの知り合いか?」
 私が缶を下ろすと、競輪場帰りみたいな服装の男がこっちを窺っていた。
 見るからに不健康そうで、恐らく一生、保険の勧誘には縁のないタイプだ。厚ぼったいまぶたは日焼けでシワになっていて、今の声も酒とタバコで嗄れていた。
「ん。彼、昔は福江って名前だったけどね」
 私は言った。「ま、復興局のお呼ばれってやつ」
「ああ。連中、てんで現場にゃド素人だもんなあ。戦中は通信かい?」
「いや、元・捜連(ソウレン)。特進無しで戦車小隊の伍長だった」
「なんだ、カミサマじゃねえかい」
 男は床に痰を吐き、へっと笑った。「なにぶん主兵サンだと恩給も少なくていけねえ。戦車の下士官さんってやつはその、けっこう貰ったんでしょう?」
「いやあ似たようなもんだよ。あたしだって十六になってすぐ徴員くらったクチだし」
「でしょうなあ」
 男は私に並ぶと、丸々とした親指で福江の部屋を指した。
 指したのは左手だった。
 右手は上着のサイドポケットに突っ込んだままで動かしていない。中の硬質な膨らみが見て取れた。視線を上げていくと、男の喉を玉汗が伝っていくところだった。
 喉元が飴玉でも転がすように上下していた。これも撃つ前の新兵がよくやる仕草だ。

「その鉄砲じゃ殺せないよ」
 彼の喉仏が止まった。殴られる前の兵隊がよくやる、あの丸くて黒々とした目が私を見つめる。
「二五口径っしょ。この距離じゃ、人は殺せない」
 私も緊張していたらしく、義手の指が缶をへこました。出来たばかりのくぼみをなぞりながら、ぼうっと目の前の空間を眺めた。
 男は紙クズみたいに顔をゆがめると、獣じみたうなり声を上げた。

 突然、身を寄せてくる。薬物の苦いにおいがした。私が腰をひねった瞬間、短い破裂音が飛び出した。鼓膜が内側に凹む感触がはっきりと感じ取れるあいだに、男の顔が怒りから諦めの無表情へと、ゆっくり遷移していく。
 彼はポケットから右手を抜いた。太い指で握った銀色の拳銃がナメクジのように光った。その手がこっちを向く前に、私も手首を掴んだ。でもひねりきる前にさらに二発撃たれた。腹から背骨まで肉をえぐられる感触が走り、思わず手を離す。
 私が屈むと、男は拳銃を持ち上げた。ポイントした照星越しに、揺れる瞳が見えた。
 ずいぶん落ち着きのない構え方だった。指はひっきりなしに震えているし、何度も狙い直すせいで、ちょっと指ではじくだけでグリップがすっぽ抜けそうだ。
「あんたも、三沢のところの患者?」
「昔は少し飲めば眠れた。でも足りなくなって」
 彼の充血した目が、だらだらと液体を流す。
 ちょうどマスコミ除けに外に出ていた警官たちがいたらしく、足音が向かってきていた。
 男は構えを解き、硝煙を噴き出す銃口を見た。六発入りのオートマチックピストルはスライドからグリップまで傷だらけだったが、不自然なくらい地金が光っていた。
「……どいつも馬鹿にしやがって」
 男は吐き捨てると、自分のあごの下に銃を突き付けてトリガを引いた。

 救急車が呼ばれるまで、私はずっとタオルで銃創を押さえていた。見ていると警官たちが倒れた男をどうするか決めかねていたので、「そいつ、死んでるよ」と言ってやった。
「骨で跳ね返った弾が脳の中を泳いでる。もう助からない」
 彼らは怪訝そうにこっちを向いた。私がタオルをめくって縫い痕だらけの腹を見せると、警官たちは納得したように離れていった。
 銃弾は動脈をかすったのが一発。幸い、内臓は胃も腸も無事だった。それでも救急隊員が来たときにはすっかり血が抜けていて、もう指を動かす気力も残っていなかった。
「大丈夫ですか」と尋ねる隊員に首から外した旧軍時代のドッグタグを押し付ける。人工血液のヴァージョンも記載されているから、私を直すにはこれで充分だ。

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