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イエスは人々の間を通り抜けて立ち去った

今週のオンラインの聖書を読む会では
30日の聖書日課を3カ所読みました。

まずルカ福音書4章21節〜30節

さまざまな疑問や思いが分かち合われました。

私が氣になったのは、30節に、イエス様が人々の間を通り抜けて立ち去られた、という場面。キツネにつままれたような感じがいつもします。山の上の崖にイエスを連れて行ったのに、なんで捕まえられることなく、立ち去ることができたの??という素朴な思いです。

また、最初人々は、イエスの口から出るめぐみ深い言葉に驚いていたのに、途中で憤慨して崖から突き落とそうとするように豹変するのは、なぜ?と思った方もいました。

また、「医者よ、自分自身を治せ」という言葉が、その時の自分に響くものがある。まず自分を治すように言われている氣がした。という方もいました。

自分の故郷で歓迎されない、という言葉に慰められる方もいました。

最後のイエスの不思議な場面は、もしかしたら、イエスの愛の眼差しに見つめられて、動けなかった、手を出せなかったのかもしれない、という方もいました。

イエスが、こんなことをおっしゃったんだ、とショック?だったという思いも出ました。

そもそも、人々は、18節でイエスが読み上げたイザヤ書の言葉を、信じていなかったんじゃないだろうか。イエスにおける神の言葉の成就を信じていなかった。だからイエスは、あんな厳しい言葉を発したのではなかったのだろうか、とか。


2カ所目は
エレミヤ書1章4節〜10節

神は私たちをも体内に作る前から知っていた
ということは、ものすごい恵み。

「若者に過ぎない」ではないけれど
「主婦にすぎない」とか
できないことを言い訳にしがち…とか。

イエスは
恐れず、神の言葉をためらうことなく
述べ伝えた方だ、とか。


3カ所目は
第一コリント13章1節〜13節

愛って難しい。
頭でわかっていて
そうしようと思っても
なかなかできない時がある。
愛ってなんだろう。

はっきり知ることになる時が来るのだろうか。

などなど書き切れませんが
1時間半で3カ所を読んで
思うところを分かち合いながら
さらに理解が深まり

さらにこれはどういうことだろう?
という問いが生まれたり…


思い巡らす時間といえば良いでしょうか。
様々な方の思い巡らしに耳を傾け
自分の視野を広げることで

聖書を通して神が語りかけるメッセージに
思いを巡らせる

そんな静かで豊かに祝福された時間でした。

問いは問いとして
心に留めて置くと
ふとした時に思い出したり
ひょんな時に
「あれは、こういうことだったのか!」
と氣づきが与えられたりする喜びがあります。

答えは
自分と神との対話の中で
自分の経験の中で見出すことが
大きな喜びとなります。

答えが与えられるときもあるけど
与えられなくても
御言葉と共に歩む一つのステップで


なによりも
もっと読みたい
もっと神のこと、
イエスさまのことを知りたい
という思いになることが
大切なのかもしれません。

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