元氣であることと信仰と…

イースター礼拝が終わって
分かち合いの時に
ある方が
「今日はイースターなのに
なんか静かで元氣がないですね。」
とおっしゃいました。

今年のイースター礼拝には
ほとんどの青年たちは
仕事でいませんでした。

そのせいもあるのかも、
と思った私は
「年?」と笑って返しましたが
何かずーっと
引っかかるものがありました。

そして
昨日
正規雇用として
4月1日から働き始めた娘が
疲れているからこそ
礼拝に出たい
と礼拝しに来ました。

「みなさん
なんか疲れているような…
イースターの時も
静かでしたが…」

と、同じ方が
分かち合いの時に
おっしゃいました。

それを聞いた私は
「まぁ、日本は年度始めと
イースターが重なるので
勤めている方は
疲れているのではないでしょうか」
と、あまり深く考えずに
思ったことを口にしました。

その方は
主の復活の信仰にあれば
元氣であることを
期待しての発言のようでした。

礼拝が終わり
夫と二人で
娘の話に耳を傾けたところ

「疲れて
でも礼拝したくて来たんだけど
元氣じゃなきゃ
ダメみたいに言われたら
もっと元氣なくなる。

信仰持っていても
生きていれば
そりゃ
落ちている時もあるんじゃないの。

元氣ないからこそ
礼拝で
神さまの恵みのメッセージに
あずかりたいんじゃ
ダメなの?」

と娘。

娘の話を聞いていて

「元氣」=良いこと
    =キリスト者のあるべき姿
と考えるのは

そうでない時の自分を
受け入れられないから

あるいは
そうでない人がいる時
どう接すれば良いのか
わからないから

なのではないのだろうか?

喜びと元氣さは
同じだろうか?

などと
ずーっと思い巡らしています。

先日
「インサイドアウト」
という本を購入して
読み始めたのですが

私の愛読書の一つ
「ひとりきりのとき人は愛することができる」
と同じようなことを言いたいのかもしれない
と感じ

この二つの本が

もしかしたら
娘の感じたことの
何かヒントになることを
願いつつ読んでいます。

静かなこと
「陽氣」でないこと
「元氣」でないこと
を今一度
見つめます。

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