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青年期①〜証

中学生の時、1966年ビートルズ来日のコンサートをテレビで見て、ビートルズファンになり、アルバムを買い集め、元々英語が好きだったこともあり、イギリスではなく、自由の国アメリカ合衆国に憧れるようになった。

当初、中学の英語教師になり、バレー部の顧問になろうと、教育大に行こうと思って高校に入ったものの、高3のクラスで私のクラスと隣のクラスに、「不良」が集まっていることが話題になり、ある人が担任にそのことを言ったところ、「俺と隣の先生が、『生徒たちが担任を選べないんだから、俺たちも生徒を選ばない』って言ったら、そうなったんだ」と言うのを聞いて、大人に幻滅し、先生になるのを止め、留学を目指す。

当時、札幌で唯一姉妹校のあった私大の英文科に入学し、3年の時にめでたく交換留学生として渡米。様々なカルチャーショックを経験。雷が恐い私に、「神さまを信じているから恐くない」という黒人の友人の言葉に、ビックリ。

帰国して、逆カルチャーショックを経験。価値観の違いを知り、何が正しいのか、相対的ではない絶対的なものは、あるのか。日本人とは何か、女性であるとは何か、自分は何者か、何のために人は生きているのか、などなど、人生の意味を探し始める。
その間、真っ暗な出口の見えないトンネルにいたような感覚で、まずは手当たり次第に本を読んでみる。仏教書、哲学書、心理学書、、、仏教と哲学は、なぜ自分がこの世に生まれたのかに答えるものでないように感じる。エリクソンを読んで、自分はアイデンティティ危機に陥っていると知る。

大学の必修科目「聖書文学」で、聖書をモチーフとした英米詩を取り上げ、その土台になっている聖書箇所の説明を聞き、聖書を初めておもしろいと思う。キリスト教ベースの本を3冊読んで感想文を書くという課題があり、三浦綾子の「塩狩峠」を読む。
十字架につけられたキリストと自分が関係ないのなら、クリスチャンになる必要はない、というようなくだりを読み、キリストが十字架につけられる箇所を聖書で初めて読む。自分もキリストが十字架につけられた時、あの場所にいたら見捨てた弟子たちと同じであることに氣づき、自分の弱さというものをに直面する。

夏休み明けから、聖書文学の教授の研究室で開かれていた聖書研究会に参加し、教会の先輩たちと知り合いになっていく。その年のクリスマスに、教会に行き、その後毎週行くようになる。

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