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日記のメモ書き2022/08/06

8月6日の朝
近づくにつれテレビでは戦争や原爆についての特集が増えていく
ヒロシマでむかえる

平和記念式典に初めて現地で参加した
テレビや配信で見るときは、最初から最後までちゃんと映してくれる局を探していつも見ているが、今日はそんなことを考えなくていい
たくさんの報道機関と、参列者。被爆者・遺族席には遺影を持っておられる方も幾人か見かけた。始まるまえには、盛んに被爆者に取材をする記者たち。

式典を守る人たちが何人も居る。運営者と景観、組み立て片付ける人
参列者に配られた冊子の中にアンケートが入っていた
内容は、厳粛な式典と騒音(この表現ではなかった気がする)(8月6日に平和公園周辺で毎年行われているデモのこと)についてだった
式典の厳粛さが必要か、どの程度必要か。音は聞こえたか、いつから聞こえたか。音に対して、規制を設けるべきか、今後も対話の場を設けることで解決を図るべきか、等。
祈りと弔いの場が平穏に保たれることを願っているものの、このアンケートはなんだか誘導じみていておそろしいなと思った。
参列者からすると、音声の内容は聞き取れないし、黙祷より後からしか聞こえていない。政治的なメッセージが発表される後ろ側にデモの声が聞こえていても私は構わないと思う。
このアンケートが市民の声として規制の根拠となるのはこわい。政治家の態度やスピーチや全く平和的でなくなってきた時にも私たちは何も主張できなくなってしまう。それはおそろしいことだと思う。象徴的な時間・空間だからこそ。

そして、アンケートにはこんな項目もあった。
内閣総理大臣が参加することに意義があると思いますか(うろ覚え)
私は「はい」と答えた。他の選択肢は、いいえ、分からない、だった。
毎年、悲しいくらいお粗末なスピーチしか内閣総理大臣からは聴けないけれど、それでも少なくとも毎年、広島に来て、何かを話さなければならないことを、その行為をなくしてしまってはいけないと思う。総理がなにを感じてくれないにしても。

それにしても、岸田さんのスピーチはがっかりだった。広島選出の議員でありながら、あんなに力のないことばで話されるとは。内容も薄く、今年も核禁止条約には触れもせず。また、弔いの想いも感じられない話しぶりだった。
一方で、市長の平和宣言湯崎知事の挨拶は例年よりも良かったと思う。特に知事の挨拶は政治家の立場として核抑止論を否定し、人間の合理性を否定し、戦争を起こさないための現実的な道の見方をわかりやすく示していたように思う。
そのあとのグテーレス事務総長の挨拶もよかった。「核という選択肢を取り下げてください。永遠に。」


式典の後は平和公園をゆったりとまわり、原爆死没者追悼記念館へ。
祈りの場所として、とても良い施設だと思っている。今日はここでたまたま朗読の会に参加した。短いビデオと、体験記と原爆詩の朗読。とても響くものがあった。文字で追うのではなくて耳で聞くこと、そこにさらに読み手がのせる声から受け取るもの、
今まで朗読を聞いてこなかったが、朗読という伝承の形がひらいてくれるものがある気がした。また、読む体験をさせてくださるのもよく、からだを通すこと、ぐっと近づくことをできるくうかんだった。
原爆詩と出会えたことも収穫だった。手記からだけでは言い表しきれない感情や、脳裏に焼き付いた光景がどくどくと息をしている。

舗装された道を歩きながら平和公園のしたにあるまちに思いを馳せる。地層があることを教えてくれた人が居たから。公園ではなく、生活の場だったこと、賑わう町だったことを想う。まだこのまちで眠っている人がいることを想う。


次は国際フォーラムへ。基町高校の生徒が被爆体験証言者とともに描き上げた「原爆の絵」がこちらにも飾られている。ちょうど、描き手が語っているところを少し聞くことができた。想いの切実さが、想像以上で受け止めきれなかった、。失礼なことをしている。
きのうたくさんの絵をみたので、すべてをじっくり見る体力はなかったけれど、やはり筆致から強い想いの伝わる絵がある。訊ねても調べても想像することが難しい場面を絵に描こうとすること、その厳しさを私は想像しきれていないように思う。
やけどを負った人々や原爆病の方の写真を見ること、まざまざとみることは難しい。いつも遠目で見てみた気になってしまう。でも描き手はそういうものをじっと見つめるし、描き起こそうとするのだということ。その過酷さのこと。
また証言者のこと。今が直接話を聴ける最後の世代だという声、今日一日で何度も聞いた。わたしが小学生の頃からいわれていたが、その切実さが増していることをひしひしと感じる。

その後、被爆遺構記念館があることを知り、訪れる。平和記念公園のなか、被爆アオギリのちかくに小さな建物。整備され埋め立てられた公園の表土を剥ぎ、被爆当時のまちの遺構が見えるようになっている。炭化した畳や、家々を分ける土台、側溝。町だった家だった場所の上に今立っているのだということをみることができる。災禍に遭った場所が復興し、慰霊のために美しい公園が整備されること、その中で失われてしまうものがあるのではないかという問いを大学で投げかけられたことがあって、ずっとわたしのこたえを分からぬまま抱えている。
「この辺りは公園で良かったですね」伝承をするなかでそう言われることがあるらしい。公園はまちのうえにつくられていると知らない人々。ここに生活があったことが、公園によって消えてしまっていたのを、この施設が出来てすこしは思い返しやすくなるだろうか。
公園は人が集う。ラジオ体操、休憩、昼食、通勤通学、散歩、お祭り
こうして問いに戻ってくる度にまだ分からないままだと思う。

その後昼食を食べ、ひと休みする。
まちなかを歩くと、いくつもの碑や看板、資料があるのに気づく。普段は車で通るばかりでこの辺りを歩くことが少ないから、実は知らないことがとても多い。

その後、被爆者さんや原爆についての展示活動をされている方、原爆や平和について活動していらっしゃる方々の集まりに参加。
それぞれの活動報告やなぜ関わっているのかという話を聴かせてもらう。
それぞれが、それぞれの源をもって個々に関わっているのだということ(当たり前に思えるが)それを深く感じた。活動形態は異なっても。

生前の曾祖母を知っている方に出会う。声を掛けてくださったこと、様子を伝えてくださったことが嬉しい。

被爆者の方の伝えたいという気持ちが先に走る語りに圧倒される。場面が飛んだりもするのだけれど、ものすごい勢い。被爆のこと、そのあとの生活、母を支えて、兄弟を支えて、看病して、看取って、ご自身も病気に苦しんで。今も痛む身体。
ひとにぎりの米で炊く、7人分のご飯

伝承・継承と弔いのことを考えたいが、同時に、核を廃絶する強い意志が語られることに、意思を継がねばならないと思う。正直ここ3年ほどは、「社会課題」や世界情勢と距離をとっていた自分がいる。抵抗したり、主張したりする運動のちからについて行けない私の勉強不足とふがいなさに脚が動かなくなっていた。やっぱり動いていかなくてはということと、動き続けているひとびとへの感謝。
しかしあまりにも大きく情報が多く、どこから手をつけたらいいのか、

家族の被爆体験の資料を読まなくてはと思いながら、3日目。今日も手をつけられなかった。これはただの私の怠惰である。向き合いたいと思いながら楽な消費に流されてしまう。

たくさんの意見を聞く今日だった。家族からも、出会った色んな人からも。わたしはまだ何も言えないという気持ちになってしまって当たり障りのないことをいう部分がある。主張することよりも今は静かに見聞きし、感じ、吟味していくこと。思うところはあるし、つい語ってしまう部分も多くあるけれど。


家族の戦争体験、被爆体験に丁寧に触れたいと思っている。


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