日記のメモ書き2022/08/07

やっと、曾祖母の被爆体験を読む。改めて。
声に出して読む。今日は一度だけ、なんども読み込むこれから。

読みながら想像する。「原爆の絵」が手助けしてくれる。

わたしは読んでいるというよりもなぞって音を出しているだけのような感じがする、
声を出すうちに途中から広島弁のイントネーションが出てきて、意識して読んでいた
ばぁちゃんの手が声がからだが発したものが、活字になっている。

手書きで書いてあるのも読む。絵が添えてあるのも読む。絵の端に赤ん坊を背負ったひとがいる、ひぃばあちゃんが自分を描いているのだろうか、
いつ、どこで描いたのだろう、これを絵をかききること、色を乗せることどういう想いで何を考えてしていたんだろう

もうこんなことがあっちゃいけん、原爆が使われることがないようにお祈りします、
そのさきにあるのが核廃絶なのだということ。ぽーんととんではいけない。怒りと悲しみ、痛み、もう使わない絶対に、ということ。
伝承とともに、それもやっぱりやらなくてはいけないと思う。
核実験のことも知らなくてはと思う。

峠三吉の原爆詩をよむ
6日の日、戦争下のひとりひとり、家族のことを精一杯やる、
屈辱、人としての尊厳をひとつも守られないということ
弔いもされず、死んでゆく、からだも生も焼かれて

原爆展の冊子を読む、途中で閉じる
見なくてはと思って拾い拾い読みながら、寫真をぐっと見ようとする、
数ページ進んでいってこれ以上見られないここでは、と思った
資料館で見るのともまた違う、一対一で自分の部屋で、
写真を鮮明に見たことがないのだと知る
ぼんやりと全体を見るばかりで、詳しいことまでは見ない
詳しく見ようとすると胸がつまる、恐ろしい、

私の中で一枚ずっとこわくて見かけたら逃げてしまう写真がある、白血病になられて斑点がでた男性の写真で、寝た姿勢でこちらをじっと見た目と空いた歯で写っている。資料館で初めてみた時か、小さいころからずっと怖くてたまらなくてそのあたりの展示は見られなかったように思う、できるだけ見ないようにしていた。
その写真が冊子に乗っていることをさらりと以前見たときに知っていて、もうそろそろその写真が乗っているかもしれないという思いもあってどんどんこわくなった。たいてい、被爆、放射線による被害は爆風や熱による被害のつぎに説明される。
人々を見るのに耐えられないと思った。
人がいる場所で、そのための気持ちを十分に整えておかないと見れないと思った。


祖父の語りを叔父がまとめてくれたものも読む。被ばく後のからだの不調やしんどさを語ってくれている様子、
勉強が順調にできない、からだもしんどい
生活をどういうように過ごしてきたのか、見た光景を体験をいま、どう思っているのか、
私たちが曾祖母のことを気にするのをどう思っているのか、テレビや式典を、平和公園を、被爆手帳をどう思っているのか
無理やり語らせるようなことではない、辛く語れないようなことであるから、
私になら話しても良いかもと言っていたと祖母が聞いたらしい、
どうだろうか、私はそこに対峙できる自分でいなくてはならない。

大きな言葉にせず、ただひとりのことばとしてからだとして、受け止め、どうにか渡そうとしていきたい


今日、四國五郎さんと木内みどりさんに関するイベントの記録を見ていて、きちんと怒ること、行動すること、本気でやること
伝わった、やらねば。

『おこりじぞう』の木内みどりさんの朗読
ぐっと喉が詰まった、


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