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Karl Löwith カール レーヴィット

ハイデッガー 不足(欠乏)の時代に考える人 1960年

前書き 第二版 より

„もし、いつ迄も 学生として居続けたら、教師に敵意を抱く。        そして 君たちはどうして 私の花冠を毟り取ろうとしないのか? 君たちは私を褒め称える;  しかし どのように - もし 君たちのその称賛が ある日崩れ落ちてしまったら?“

注)学生として居続けないといけなかったら、と言える。つまり、その教師が、いつまでも教師であり続けたがる という意味であるとも解釈できる。そしてレーヴィットは彼の学生に言う、私の事を褒めるのはやめろと。何故なら、その称賛は真実でなくなるかもしれないし、それよりも私を乗り越えなければいけないから。私の花冠を毟り取りなさいと。つまりいつまでも私が教師で君たちが学生で居続けるべきでないし、私もいつまでも君たちの教師でありたいとは思わない。 暗に彼とハイデッガーの関係を揶揄していると考える。

最後の括りの文章

キリスト教の思考者、アウグスティンは、彼の「自己会話 Selnstgesprächen」においてはっきりと断言している。彼は世界にでは無く、唯一 自身の精神の神へのつながりだけに関心を持っていると。                 イエスの後に生まれた(キリスト教信者)考える人 ハイデッガーは、相反して 人間が現にここに存在する Dasein を ” 世界の中(で)の存在 in-der-Welt-sein“ と言い切った。そこで問う、存在 Sein とは、世界を 殊に人間の現存在だけを捉えているのか、もしくは、神からの私たちの精神 Seele へとしての世界と捉えているのか、結論に達して無いままで、いろいろな意味に解釈できる。

注) 世界は人間が現に存在するだけと捉えたとしたら、キリスト教におけるそれまでの概念を 全て否定することになる、と言うことを言いたかったのだと思う。Seeleは死滅しないもの。下段参照。                                                                       ハイデッガーはイエズス会の神学校に入学したほど、信仰心の強い人だったはずだが、世界と神の関係をおざなりにしているのはどういう事か、という事も含めて言っている様だ。因みにハイデッガーは神学校入学1ヶ月めにして、体調不良になり退学している。

Seele をここでは精神と訳したが本来次の様な意味がある          1感じること、体験、殊に感情の高まり。深く、心温まると感じる感情。一般的な感覚。                                 2(宗教に於いて考えられている)死滅しない 人間の一部分。                                3(専門用語) 内部で一番深層なところ

そしてレーヴィットが言っているSeeleは 死滅しない人間の一部分。なので精神と言えるかどうか、魂なのか。しかし魂と書くと、個人的には Seeleと異なる様に考える。神が身体と一緒に創造したものだから、そして身体が死んでも Seeleは消滅しない、人間が死ねば DaseinもSeinも消滅する。言葉は難しい、そして言葉を他の言語に置き換えるのはもっと難しい とつくづく考えてしまう。




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