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【インタビュー】所有者の視点から見た文化財 vol.3 -国重要文化財および名勝 杉本家住宅(京都市)-前編-

京都の街のもっともにぎやかな界隈、四条烏丸の交差点から徒歩2分の場所に、今も往時のままの構えを残す大規模京町家の杉本家住宅と、その庭園があります。
杉本家は奈良屋の屋号で江戸期1743年に呉服商として創業し、主屋は1864年の元治の大火で消失後、1870年に江戸時代の職人技の粋を尽くした再建をされ、約150年を数えます。現在は、公益財団法人 奈良屋記念杉本家保存会が所有し、管理運営をしています。

家業を営む場、そして近年までは生活の場の「家」として受け継がれてきた杉本家を守り続ける2世代、財団法人代表理事の杉本千代子さんと、そのお嬢様であり、建造物の維持保存や公開企画運営、所蔵品の管理などを担当する杉本歌子さんに、お話をうかがいました。

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商家として、また住宅として使用されていた杉本家が、現在の公益財団法人による運営に変わり、一般公開される文化財となった経緯をお聞かせください。

歌子さんー
なかなか一言ではまとめにくいものですが、財団法人化する時点でこの家や土地は、当家が創業家である「奈良屋」という会社の所有となっていました。
と申しますのも、私の父 杉本秀太郎は9代目として生まれましたが家業は継がず、文学者の道を歩みました。

ですから、この大きな家の維持費や税制面での負荷を息子の世代が担うのは無理だと考えた私の祖父(8代目郁太郎)が、この家を会社の名義にすることで、代々受け継いできた「奈良屋」の創業家としての「杉本家住宅」の存続を図ったのです。
私たち9代目の家族は、言わば社宅に住まわせていただいていたのです。



そもそも「奈良屋」は千葉県の佐原市と佐倉市に小売店を構えて京呉服を売る、いわゆる多国店持京商人(たこくたなもちきょうあきんど)として初代が築きました。
扱う商品は京呉服だけにとどまらず、顧客の求めに応じて洋品やヴァイオリンといった商品も扱っていたようです。

昭和4年には株式会社へ移行し、店も千葉市内に移して百貨店としての経営をするに至りましたが、次第に経営状態は悪化するようになりました。

そこで、祖父の後に「奈良屋」の経営を任された社長が、会社建て直しの望みを持って白羽の矢を立てたのが、京都市内中心部に残る社宅である杉本家住宅を取り壊して、その土地を再開発することでした。

もし、この計画が進めば、9代目秀太郎家族は先祖が建てたこの家を失うだけでなく、この地を離れることになります。
それはとても残念なことではありますが、その現実を受け入れるしかありません。

ですから、この会社の計画が持ち上がった当初は、私たち家族は、明和元年から先祖が住み続けてきたこの綾小路通り矢田町(あやのこうじとおりやだちょう)から離れることも、受け入れるしかないね、という気持ちではいました。

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(綾小路にある杉本家住宅の外観:2021年現在)

けれども、当時父が国際日本文化研究センター(以下、日文研)に勤めていた経緯などあり、当時の所長であった梅原猛さんをはじめ多くの文化人の方々が、「この家は後世に残すべきだ」とのお考えを持ってくださり、再開発以外の道を探るきっかけをくださいました。

ただ、残すといっても、気持ちだけではできないものです。



ここは会社の持ち物でしたから、株主の皆さんのご了解をいただく必要がありました。
創業家として、父と母は、千葉と京都を往復して、株主さんや経営陣の方々と何度も対話を重ねました。

経営する側も、会社を成り立たせるためには、理性的な判断をしなければなりません。
お互いに大変難しい選択でした。

最終的に、京都に創業家があり続けることを誇りに思う皆さんのお気持ちが優って、この家を守ろう、という方向になっていきました。

会社側も、保存会を立ち上げるのであれば、そこに土地建物を寄贈します、という大英断を下してくれました。

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(画面左:杉本千代子さん 画面右:杉本歌子さん)

ところが!
ひと安心も束の間で、そこからがまた大変でした。


まず、保存に賛同いただいた方々にお力添えいただいて、保存会の発起人会を立ち上げましたが、財団を設立するためには基金を募らなければいけません。
父も母も、寄付金を集めにまわりました。

ようやく平成4年に保存会が設立できました。
これで杉本家が保存できるようになったわけですが、今度は、保存会の定款を作らなくてはなりません。

ところが財団設立のための事務的な書類作りは初めてのことで、何ひとつわからないわけです。



再び、ここで父が学者であったことがご縁を呼ぶ出来事がありました。
かつて父が京都女子大学でフランス語を教えていたころの教え子であった冷泉貴実子さんが、助け舟を出してくださいました。

貴実子さんは公益財団法人 冷泉家時雨亭文庫を設立なさったご経験があったのです。
当方は、まずは冷泉家時雨亭文庫の定款をお手本に仕上げ、無事に保存会が立ち上がりました。

保存会を設立するまでに、大変なプロセスがあったのですね。

歌子さんー
そうですね。
なんせ「うちとこ」と思って子供のころから当たり前に住んでいたこの家が、ある日突然に取り壊されるかもしれないという現実を突きつけられた不安、さらには会社のものだったのか、という驚きもありました。


そのダブルショックゆえに、私はその現実から逃避して、すっかり心を閉ざしてしまいました。
その頃の父と母の奔走している姿の記憶があまりないのです。


当時、私は20歳ぐらいでしたが、今思い返すと自分は幼稚で情けないですね。

千代子さんー
今思うと、私の義父の8代目が、この家を会社名義にしていたことが、保存につながったと私は考えています。

8代目までが、家業の「奈良屋」を経営していました。

保存会を設立する上で、私が一番運が良かったと思うのは、8代目のもとで育った最後の奈良屋の社長が、とても父を慕ってくれたことです。

義父にしたら、実の息子である私の主人が、京都で、家業からは別の世界である文学の仕事をしていたこともあり、義父は「奈良屋」を委ねた社長を実の息子のように考えて結びついていたと思います。

義父は彼には自分の弱い面も見せ、というように、心の通った会長と社長に見えました。

義父が体調面で、先のことを考えなければならなくなった時に、主人が勤める日文研の先生仲間が、この建物は建築的にも守らなければいけない上に、主人の文学の世界も守らなくてはいけないのだ、とおっしゃってくださいました。

夫の大学時代の恩師は桑原武夫さんですが、このピアノは桑原さんのお宅からいただいて、主人がよく弾いていました。
これがその頃の手です。

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主人は、そういう風にいろんな人に守られて、ここで文学の世界を追求し、ひいてはそれが同時にこの家を守ることにもなったのです。

なるほど。組織を立ち上げることも、最後は人の信頼関係で成り立つのですね。

歌子さんー
そうした人を繋ぎ止める生命力というものを、この家自体が持っていると強く感じます。

少し変な言い方かもしれませんが、この家の「意思」というものが、まるであるかのような時があります。

この家は、過去からこの先の未来まで、自らが存続せんが為に、あらゆる人材、あらゆるご縁を、引き込んでくる力を持っているように感じます。

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(杉本家住宅の深い陰影の座敷)

だから、父を生んで、母を引き入れて、姉や私がいる、というその全てがこの家の成せる業だと思わざるを得ない時があります。

この家が、「歌子、あんたもう、よろしわ」と言わん限り、私は出て行けへんのやなあ、と思います。きっと出て行ったら私には別な自由があるでしょう。

でも、出て行ったら私はカタチがなくなる。自分自身が壊れてしまうとさえ思うのです。
私というものを形作っているものは、この家の中にいることで、はじめて現れてくるように感じます。

すごい!人と家の関係の、根幹に触れるようなお話ですね。

歌子さんー
ただ、これが一般公開するにあたって、あだになって自分を苦しめたようなところはありました。

それはどういった苦しみでしょうか?

千代子さんー
自分の大事なものを、人に見られる苦しみだと思います。

歌子さんー
「うちとこ」と思って育った時と、何も変わらずここに洋間があって、何も変わらずにいろんなものがそのままあっても、もう戻ることができない。
私が帰りたい場所が目の前にあるけども、それはもはや私が帰ることができる場所ではない、という、それは自身の内面の葛藤のしんどさであったと思います。

そういう時期はもう抜け出せたと、自分では思っていますが。

一般公開がはじまった頃は、やはりそういうお気持ちが強かったのですね。

歌子さんー
いえ、はじまった頃だけではなく、そのあと何十年も、です。
20年はしんどかったですよ。それが、ある時を境にほどけて消えた、といった感じです。

一般公開していてお客様が杉本家の中におられる時に、そのようなお気持ちになるのでしょうか?

歌子さんー
いえ、それが不思議なことに、実際にお客様に接しているときは、何もそんなことは思わないのです。反対に、この家のいぶきに共感してくださることが嬉しいし、お話をして、とても楽しい時間です。


ただ、どうした訳かみなさんが帰られた後、自分一人になった時に、しんどくなる時がありました。寂しさ、と言いますか。


一番しんどかったその20年間は、この家とへその緒でつながっている感じです。
今は一応、身二つにはなれていると思います。有機的なつながりを家と感じるというのは、多くの方には少しわかりにくい感覚かもしれませんね。

「二つになれたな」と思えた瞬間はありましたか?

歌子さんー
はい。ありました。

頭上に低くのしかかって、払っても払っても払い切れない暗雲が、あるとき急に、さーっと離れはじめて雲の切れ目から太陽の光の筋が差し込んできて、すると、みるみるうちに青く澄み切った空が広がっていった、そんな感じでした。

なんだか、ようやく自身で自分を認めることができたような、清々しい気持ちでした。

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(杉本家住宅の玄関におられる歌子さん)

でも、精神的に疲れたら、この家に身を寄せて、ちょっと休ませてほしい気持ちになります。きっと、ここへ何度も足を運んでくださる方々は、同じような気持ちを持っておられるのではないかしら。

私は東京の集合住宅出身で、杉本家の皆さまのような、いわゆる帰るべき場所としての家を持たないので、共感しようと、今必死です。

歌子さんー
そうですね。わかりにくい感覚だと思います。
たぶん、家と有機的な関係をもつことが自身にとって大切だと感じる人なんですね、私は。

千代子さんー
私もここへ嫁いでくる前から、杉本家よりも100年以上長い歴史のある家に生まれて住んでいましたが、あまり歌子のような感覚は実家に対してもないですし、杉本家住宅に対しても強くはありません。


同じ空気の中にいても、人によって感性は全然違いますね。

かつて、この杉本家はどのようにお使いになっていましたか?

千代子さんー
私が嫁いだ昭和33年には、ここの家は住宅としてのみ使われていました。
仕入れ部としての店の機能はもうありませんでした。

主人が生まれた昭和6年ごろには、千葉だけで商売をするようになっていました。

今お話しているこの洋間も、本来は店の間だったところです。
この壁もなくて、続き部屋で広い空間だったはずです。

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こういう風に仕切って洋間にしたのは義父の代で、京都の方で仕入れ部の仕事がなくなったので、義父が結婚する昭和4年にこのように改修したようです。



私が嫁いできたときは、義母は「住まい」としての家をきちっと守る日々を過ごしてはりました。



だから商売の頃の時代のことは私でもわかりません。

歌子さんー
昔からこの場所で小売はしていなかったのです。
仕入れ部でした。

京都の呉服をここで仕入れて、荷車に積んで、千葉で販売する、というスタイルでしたが、仕入れ部の役割があった頃は、男衆や女子衆も住み込みで働いていたので、それなりに賑やかな家であったと想像できます。

千代子さんー
三越さんと同じ形態です。
商売して力がつくと、そのような形を目指すところが多かったと思います。

太平洋戦争中はどのように過ごされていましたか?

千代子さんー
もう、がらんどうです。家族だけです。
守るために奈良屋の売り上げで、家の傷んだ箇所の修理をしたり、庭の手入れに入ってもらったり、というかたちでした。

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(杉本家庭園の様子)

歌子さんー
戦争を期に、わずかに残ってくれていた女中さんもおうちに返さなあきませんし。

不思議なことに、母千代子は、結婚して初めてこの家にきたわけではないんです。私の父秀太郎と母千代子のそれぞれの母親が姉妹なんですよ。つまりいとこ結婚ということです。
母千代子の実家は伏見で近いので、小さい頃からここにはよくきていたのです。ですから、結婚前の戦前の杉本家の雰囲気も知っているんです。

千代子さんー
私の実家は、祖父の代まで呉服をやっていて、月桂冠の酒造りを習ってそこから酒屋になりました。今の齋藤酒造です。祖父の姉妹は月桂冠に嫁いでいった人もあります。

昔は今よりも、お商売をするおうち同士で、文化やソサエティのようなものを深く共有していたので、そのような交流もあったのですね。

歌子さんー
なかなか濃いですよ。
ソサエティはやはりあったと思います。お商売のやり方も共有していたんだと思います。

後半へ続きます→


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