日記211006 (死後があるとして)

 前回の続きっちゃ続きか?

 「死後はなにもかもがなくなるのだから、死んだあとの事を悔いたり、死ぬことによって失ったものについて嘆く自分がそもそも存在しないので、それらを恐れる必要はない。恐るべくは、死に至る直前の生(主に痛みなど)のほうであろう」という言説はよくある。

 確かに脳が機能しなくなり思考や感情が失われ、絶命すれば、あらゆる自我的認識はなくなり完全な無となる……という可能性はめっちゃ高そうだ。脳科学に明るくないが、死後に霊的存在となって生前と同レベルの思考ができるほど、脳への依存度は低くない予感がする。

 とはいえ死後の人間からヒアリングできた例(のうち信憑性が十分なもの)は無さそうな以上、なにも断言はできない。霊になる可能性もあるよな。書いてて笑っちゃうけど。


 で、例えばおれが今自死したとする。仕事の引き継ぎなんかせずに。まあまあ大きな迷惑がかかる。色々な人に迷惑がかかるな。おれの死体処理をする人なんかカワイソウだし、葬式なんて面倒な儀式をさせてしまった日にゃ肩身が狭い。

 しかしその時は死んでおり完全な無なのだから、申し訳ないとかカワイソウと思う自我が存在しないし、狭くする肩もない……ってのが通説なわけだが、霊的存在として知覚と意識が残り、その一部始終を見届けてしまったらそりゃあそりゃあ気まずいぞ!ということを考えていた。

 今われわれが霊とコミュニケーションがとれないように、おれも死後だれかに認識されることは考えなくて良い。そういう意味では、どう迷惑をかけていたって、霊となったおれを罵倒したり殴りかかったりはできないわけだ。

 直接ドヤされないなら気楽じゃん……ということもなく、つまりそっからはおおっぴらに陰口を耳にする可能性がある。引き継ぎもしねえで逃げやがってクソがよ、みたいなことを、霊であるおれが目の前にいると気づかず言ったり、他の人と陰口で盛り上がるかもしれない。本人はもういないのだから。

 そんなのもう開き直るとか無理ですよね。実際、そんな口の悪い人ばかりではないだろうし、おれもそこまで品行は悪くないと信じたいが、すべては可能性の上にあるのであって……

 自分の暮らしてたエリアから逃げ出しても、可能性に後ろ髪引かれること請け合いだ。そんな可能性なんてサッパリ忘れちゃお!ができる人はそもそも、自死よりも手軽な逃げ方を見つけられる気がする。


 そういう可能性を思うと、「死ねば無になるんだから何やっても大丈夫!」的な開き直りがあんまりできなくなってくるというか、通せる筋は通すんだぞ、って心構えになってくる。

 死しても逃げ場なし、という捉え方をするとかなり強迫的だが、徳政令カードを期待して自暴自棄になるよりはマシというか。

 そういえば、おれは宗教学にも明るくないけど、地獄なり輪廻なりの存在ってけっきょく、死後っつうわからない世界の可能性を人質に、現実の倫理観をコントロールしようって試みでしょう? 似たようなことだね。

 善く生きよう を自ら確信して実行するのではなく、損得勘定で判断してしまう価値観の人に対して、死後の損得を提示することで相手の価値観に乗っかる脅迫の一種というか。

 ではなぜ 多くの人を善く生きさせよう、一部の者が大衆をコントロールしよう とする動機があるのか……みたいな話になっていくけど、少なくともおれがおれをコントロールする上で、霊的存在を信じてみることで己を脅して背筋を伸ばそう、と試みるのはひとつの戦略だ。

 ガチで信じる必要はないが、そういうこともあるかもね笑、くらいに思うことで、言動に微量な影響を生む。まさに信心ですね。


 あっ今日はそんだけです。さよなら〜〜

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