日記211003 (生の放棄を肯定する話)

 死にたい/生きていたくない というメンタリティに主体的になったことはこれまであまりなくて、基本的には生き長らえたい。理由として「世にあるものに対して感想することができる、そして思考ができる」ことの価値を強く感じていて、それを自ら手放す選択を取ることはよっぽど起きない、という基本姿勢がある。

 反論として「それらを失った時には、失った自分自身を評価する自分も存在しないのだから損失にあたらない」もリクツとしてはわかるが、現在的な評価よりは、「自分を斯くあるべしという状態に置くこと」を動機としている感じだ。

 あるいは、強い絶望や厭世、身悶えし叫ばずにはいられない苦しみに苛まれることが毎日ある。命に関する独り言が止まらない時はあるが、しかし衝動的なものにすぎず、100%の意味を伴っていない。なぜなら、それらはいかに強烈であろうと、生への固執と同じ天秤にはかけられない、重さ比べのできる次元にあるものではないという考え方をしていた。


 その考え方が最近転換している。主体的に死にたがることとはどういうことかが直感として掴めてきた。自傷の延長としての自死ではなく、単純に天秤が機能するシチュエーションがわかってきた(いや、自傷のメカニズムもよく理解してないのにこう言うのは早計だけど)。

(以下もいろいろ書くけど、自死宣言ではないのであしからず)


 なぜ生きようと思うのか、おれはその理由を感想や思考に見出していた。これらは言うなれば「インスタントな刺激・欲求解消、およびその余韻」である。

 良い曲聴いてうれしいな、はコンテンツ消費である。三大欲求で言うなら、うまい飯を食う、眠い時に眠る、性欲処理をする。他にも風呂に入って気持ちが良いとか、YouTube見て笑うとか、その瞬間瞬間の自分の欲求を満足させる刺激。これを毎日摂取できていれば幸せな生である、という感覚があった。

 そして同時に空虚でもある。この価値を担保するのは足場のない信心だ。「なにか他人を打ち負かしてプライドを保つ必要なんてない。毎日ちょっとおいしいごはんが食べられて笑えたらそれでいいじゃないか」は直感的に肯定できるが、裏返せばこれを直感的に信じられなくなった時に、とくに頼りどころはない。

 前回の日記でおれはこう書いた。

その場の誠実な思索を積み重ねていくことで、ポジティブな彼岸へ歩を進められているような、まあ甘っちょろい確信というか……信心があった。それが今はないね。(中略)目の前の人にやさしくしようとか、今できる仕事をやるばかりだとか、そういうことからフィードバックの手触りが無くなって、むしろなぜ今までそれらがよい未来に通じていると信じていられたのか?が思い出せなくなってきている。

 インスタントな感情や行動の価値が減耗している。「その瞬間瞬間を大切にできたらそれでいい」を賛美する理由がじつは特に無いのではと気づきかけている。理由とかではなくて本心からそう思えていたうちは良かったのだが。

 この価値減耗の理由は、家でひとり、未来の展望がない生活をずっと続けていて、感想を起伏・持続させる力を失っていることにある。おいしいものを食べて「おいしいな」から「おいしいから何だっていうんだ?」になるまでのスピードが加速している。

 そうして外部刺激への感度が鈍り、以前良いと思ったものがどんどん色褪せていく。「思索そのものが好きであるから、生き続けて思索を重ねていきたい」という気持ちも色褪せる。思考しよう!というのも、いくら過去の積み重ねを踏まえていようとも、その場の自分をインスタントに満足させるための行動選択にすぎない。

 こうして、生きたいという大きな理由が揺らいだ時、自死選択は現実的な選択肢に乗ってくる。天秤が機能してくる。たとえば、自死に至るまでの痛みがイヤだとかが天秤の片側に乗るのだが、痛みの回避というのもインスタントな欲求解消のひとつであり、「痛みがイヤ」を理由として肯定できるならいまこの瞬間が楽しくて生きられる、も肯定できるはずなのだ。

 インスタントな感情の価値を直感的に肯定できるならば自死は回避すべきだし、さもなくば逆。とおおまかにまとめることができる。すなわち、肯定できなくなってきている現在のおれは目下、自死を主体的な行動選択肢として捉えられるなと感じられるようになった。


 この日記を書いた理由はこういったことにハッとした、と書き留めとこうと思ったから。

 「なんかしたり見たりしても、ほんの数秒しかおもろくなくてなんもかんもつまんねーな」って状態に陥ってしまった自分は、「ものを鑑賞し感想し思考することが意義深いから、脳が動く限りおれは生きるぜ」って態度だった自分を、めちゃめちゃダイレクトに否定できちゃうんだなー。"いま現在の瞬間の自分を善くあり続けさせよう"ベースで生きることの脆弱性。


 それでもじゃあ、自死以外にないんか?というと、勿論生きて別の価値基準を探していくことができる。ざっくり言えば"いまを生きる"のを控えて、良い未来に希望展望を持ちアプローチすることだ。

 これもまた別の信心が必要になってしまうが、幾らかリクツ的な組み立てがしやすくて、足場に楔を打ちやすいと思う。

 こんな真っ暗な世の中でも、きっといい未来を作れると信じて努める、そういう元気が残っているうちに行動しよう。おれも努めたいのだが、精神的な体力と社会的な条件の面でかなり手遅れを感じている。

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