見出し画像

観測者よ、そこに座せ

ChambreBlancheという文藝サークルで、婚活のことを書いた同人誌を計6冊(2024年5月)出した。いや、正確には4冊目の旅行記本には婚活の話は入れ(られ)なかったから、5本の婚活エッセイが存在することになる。

そのうち、5冊目の本である『魔女のふたりごと』では、「結婚相談所を退会する」ということにフォーカスしたエッセイを書いたのだが、この一本には、祖母の死というものが多分に(いや相応に?)関わっていた。

完成した『魔女のふたりごと』を観測者目線で読んだ時、当時ですら「祖母の死を場を引き締めるエッセンスとして使ったとはいえ、かなりアッサリした描写に仕上がったなー」と思った記憶があるが、このたび、全然アッサリしていない原稿本編から取り残された文章が発掘された。
それが単にメモであったのか、初稿に含まれていたものの文章を整える過程で本文から削除された文章なのかは定かではない。

確かなことは、私は世に出た本文のうちたった800字程度を祖母について割いたことで、彼女の死と向き合ったつもりになっていたということだ。そこに十分に故人を偲ぶ心があったかというと、0か100かでいえばゼロだったといってもいいだろう。
折り合いが悪く、最期まで分かち合えなかった祖母。末期にはもはや分かち合いたいという感情すら抱かなかった……はずだが、果たして本当にそうだったのか。

私は今、祖母が住んでいた部屋をリフォームして住んでおり、元気だったころの祖母がよく座っていたソファの位置にあるデスクに向かってキーボードを叩いている。
そんな環境の中で、ファイルが今発掘されたということは、意味のあることのように思えた。それは、改めて祖母の死と向き合えというメッセージだ。未来永劫分かち合えないことが再確認できたとしても、まだ祈ることはできる。

時薬とはよく言ったもので、祖母の死から4年、『魔女のふたりごと』発行から3年が経ち、記憶も怒りも嘆きも当時より随分と薄れてしまった。
あるいは、婚活に幕を下ろし子育てに奔走している今だからこそ、何か思うところがあるのかもしれない。状況は一変した。それこそ祖母の住んでいた部屋に住むことになるなんて、当時は露ほども思わなかったのだから。

以下は、当時の私が綴った祖母の死に纏わる記録およびエッセイに含めることを前提とした文章である。非常に散文的だ。そのため、長い文章群を小テーマごとに分割し話が通じなすぎるところなどを適宜編集、<>で補足説明、自省などを追記した。面白いことは殆どない。
なんやかんやと小難しい理屈を並べているが、祖母の死をどう捉えるか決めきれなかった当時の私(とせっかく書いた文章)を救いたいだけなのかもしれない。



祖母が亡くなったことを知った時の話

会議に行こうとした時、私物のスマホに通知が来ていることに気づく。LINEだ。この頃私は友人たちと断続的に趣味のLINEグループでやりあっていたため、その返信かと思ったが、差出人は母だった。要件が一番初めに書かれていたため、ロックを解除しなくても要件がわかった。
祖母が息を引き取った。その知らせだった。

芸能人の結婚報告よりも心が動かなかった。
<「芸能人の結婚」は、順当に考えれば「どうでもいいこと」の象徴なのだが、婚活で苦戦していた当時の私が芸能人の結婚を「フーン」で受け流せていたかははなはだ疑問である。強がりかもしれない。>

はじめに思ったことは「五分後に始まる会議は、直属の部門長と上司との打合せだ。部門長と上司、どちらに先に報告すればいいんだろうか」ということだった。打合せ始まりに報告するのもなんだよな。終わってからにするか。いや、こういうのは早く言った方がいいのか?

次に、私はまた一歩、ロボットに近づいた。と、思った。
<私をよく知っていた人がいなくなる。脈々と流れてきた同種の血統を持つ人がいなくなる。私は「孫」という名の一側面を失くして物体としての型を保てなくなり、また世界から千切れていく。>

打合せの最中、何度も「祖母が死んだ」という言葉を反芻した。
転んで足を悪くしてから不安定な行動が増え、直にデイサービスを利用するようになり、老人ホームに入った。その手続きだって、実の息子である父はが行い、私は関与していない。それを抜きにしても、私が祖母に積極的にかかわることはなかった。

ホームにだってたまに顔を出す程度。一度ホームから「危険な状態だ」と言われてから一度会いに行っており、その後持ち直したがまた弱っているという話も聞いていた。だから驚きもない。今までとあまり変わらない。
小学生の頃の親友と、今はぷっつり交流が途絶えていることとあまり変わらない。二度と意思疎通が取れないという意味で、誰かと袂を分かつのと死にはさしたる違いがない。
そう、だから、こんなに心が動かなくても何も問題ない。考えが壁にぶつかる度、私は少し息を溜めて鼻から息を吐いた。


祖母の亡骸と対面した時の話

冷房がキンキンに効いた部屋だった。祖母はまだ死化粧はしておらず、衣服はパジャマのままだった。鼻に脱脂綿も詰めていない。ストレッチャーに乗っている。死者はすぐに重厚なベッドに寝かされるイメージがあったが、確かにここまで来るにも、これからも移動をするのだ、その方が効率的だ。

母がドライアイスで囲まれた祖母に「一人にして、冷たくしてごめんね」と言いながら指を寄せるので、私も祖母に触れてみる。思っていたより柔らかい、と思った。
しかし、中学生の時に<母方の祖母を亡くした時、手に触れるとぞっとするほど冷たかった記憶がある>感じた凍り付くような気持ちにはならなかった。大人になったからかもしれないし、あるいは別の理由かもしれない。

目元が少し濡れているようだったので、糊か何かでくっつけているのかと問うと、はじめからそうだったと言われた。私が最後に見た時は、手足がむくみ、起きているのか寝ているのかもよくわからない状態で肩を上下させるような呼吸をしていたので、穏やかな顔だと思った。
私は祖母に「お疲れさま。頑張ったね」と言った。
<「頑張ったね」と言ったというが、その当時、心からのものでなかったはずである。発した声が自分でもどこか嘘くさく聞こえていたに違いない。>


葬式会場の下見をした時の話

それから、翌日の式場を見せて貰うことになった。チェーンの葬儀社であるが、小奇麗で明るい式場だと思った。左右、遺影下に胡蝶蘭と百合がこんもりと飾られている。
遺影には赤い花がドッキングされ、笑顔の祖母を飾っていた。

母が「家族だけだしどうしようか迷ったけど、ランクをひとつあげたの。それで、真ん中の花が追加になったんだけど、綺麗でしょ」と言った。祖母と母もまた折り合いが悪かった。祖母は物忘れが始まってからは、最も献身的に面倒を見ていた母の名は忘れるのに、たまに良いところにだけ顔を出す息子のことしか覚えていないような人だった。
だからといって母はホームに入居してからも手間暇を必要以上に惜しむことはせず、ただ情は移さずにいた。わだかまりは当然消えないからだ。

健康な頃の祖母は頭がよく回り、気位が高く、ホームでの遊戯(みんなで手を叩いて歌を歌うとか、簡単なレクリエーションとか)ではいつも壁沿いのソファに重しくなさそうに座っていた。父は実の親に当然情はあるが、自分の手はなかなか動かさない。
晩年の祖母は、出生地である四国の某所に帰りたいと悲しげな声をあげることもあったし、家<今、私が住んでいる部屋>に帰りたいと何度も泣いた。それでも、こんな風に送って貰えるのなら、やはり祖母は幸せだったと言わざるを得ない<言わざるを得ない、は過言だと言わざるを得ない>。羨ましい限りだ。
私など、今のところ誰に送って貰える予定もないというのに。


遺影と、私が覚えている祖母の顔の話

「この遺影はいつ撮ったの?」と私が問うと、今年の四月だと言う。
祖母が急激に体調を悪くしていく少し前のことだ。屈託のない表情だ。正直、見覚えがない表情だなと思った。

私が覚えている祖母の顔と言えば、まだ一人で立ち、歩き、筆を取れる頃のものだと気づいた。祝い事で貰う封筒には、いつもちょっとした直筆のメッセージが毛筆でしたためられていた。金一封はいつも、祝いや激励の言葉の五倍くらいのチクチクとした言葉を纏いながら授与されるもので、私は授与を辞退するから嫌みもやめてくれ、と思っていたものだった。
それがこうなってからは、私はこれ幸いと祖母から目を逸らし続けてきたのだ。ホームを訪ねた回数も両手を足せば十分足りるだろう。
まあ、その点については実家にすら後ろめたく近寄りがたかった<婚活がうまくいっていなかったため>ということもあるので、それはそのまま両親に会った回数×0.7くらいといえるだろう。

祖父が他界したのはもう25年程前の事で、それから祖母は折あることに「遺影用の写真を撮る」と言っては写真を撮っていたが、採用されたのはおそらく本人が特に意識をしていない写真だった。死にゆく準備なんて無駄なものなのだと思いやられる。


孫としての私の在り方の話

面会に行っても、すぐには私のことが思い出せず、言葉も聞こえているのかいないのかわからない祖母を前に、私は何もしなかった。
声のトーンをあげて話しかけることやしゃがんで目線を合わせることも苦手な上に、心が伴ってもいないのにそう接するのが正しいかわからないなどという理屈を捏ね、父や母の後ろからその目を覗き、見様見真似で手をさすってやることすらもできなかった。

過去や腹に何を抱えているかはさておき、私は薄情な孫だった。
<たったひとりの孫だったのに、私を忘れてしまったことをガッカリする気持ちがあった。やはり私はこの人にとって、さしたる存在ではないと突き付けられたようで。忘れてしまうような孫から冷たくされても仕方ないと、冷たい気持ちを抱いていた。

こうして振り返ると、忘れられたのはそれなりにショックだったのだ。当時はそれを認めることが出来なかったが。祖母に何もできなかったのは、そんな気持ちの裏返しだったのだろう。
ただそれは「あんなに嫌みな人だったのにそれも言えなくなるとは!」という、人体の老化そのものに対するものかもしれない。その区別は現時点ではまだつかない。>

年齢を考えれば<享年93歳、老衰>、意識のはっきりしている内にひ孫の顔をみるのが可能な人だった。しかし私は未だ結婚に縁遠く、ひ孫どころか孫の結婚式すら見ることが出来なかった。そうなればせいせいする、と心のどこかで思っていたのは事実だ。

祖母の意識がぼやけるようになってからは、この状態で結婚式を行うとしたら、母が世話に追われてきっと式が終わった後に何も覚えていないと言うだろうな、とも。だが私はそもそも、そこまで思う価値のあった孫ではなかったのだろう。

<祖母について書けば書くほど、自分が心の貧しい人間であることが露呈して苦々しい。だから自虐を交えることで、「はじめに祖母が私を傷つけたから仕方ない」という大義名分を得ようとしている。いっそ露悪的。>


親を送る子供の心情について

遺体を安置している葬儀社からの帰り道、<一人暮らしの>アパートに送ってもらう途中でコンビニに寄った。なるべく楽で栄養補給ができてさらさらと食べられそうな晩ご飯になりそうなものを見繕っていると、父が寄ってきて「タマゴタマゴサンドはないんだな」と言った。

父は母がいる時はあまり私に声を掛けては来ないので、珍しいなと思った。サンドイッチ棚を見ると、なるほど、ハムサンドやツナサンドとタマゴサンドのパックはあれど、タマゴサンド・タマゴサンドのパックはないようだった。<昔はあったような気がする。そして、よく食べていたような気も。>

適当に相槌を打ちながらふと父を見ると、おなかを抑えて眉尻を下げていた。
「何か胸がいっぱいになっちゃってさ」

その言葉にどきりとする。諸般の手続きが大変だった疲労もあるだろう。先ほども、昨日あったばかりであろう葬儀社の職員に「喪主証明が必要だと言われて、〇〇さんの言ってた通りの書類、持って行って良かった」だの、明日の段取りの確認だのと口を閉じることがなく喋り続けていた。
もともとよく喋る人なので、特段ハイになっていたとは思わないが、これで父は二親を亡くしたことになるのだ。思うところがない方が不自然だ。

それから父がレジに向かい、その間に母に「父は気落ちをしてたりはするの?」と尋ねてみた。すると、母は「まあ五月に悪くなってから、覚悟はしてたみたいだし」と言った。
今回の葬儀社に決めたのも、五月に祖母が体調を崩してから、父が予習がてら事前に各所に話を聞いていたからスムーズに進んだと母から聞いていた。

そうか。その段取りが出来る状態でも、覚悟は必要か。
自身が66歳になり<今のところ>健康に不安がなくても、親が93歳まで病気ひとつせず生きて死因が老衰であっても、妻子があっても、親を見送るのには覚悟が必要か――。
絶望だ、と私は思った。

<一人っ子である私が最も恐れていることのひとつは、二親をたった一人で見送ることだった。現在は夫がおり「あーあ見送る人4人に増えたわ」と思うが、自分の親をひとりで送らなくていい、という比較的確度が高めの未来はメンタル安定の一助となっている。
最も予定は未定であるから、「ひとりでふたり送る」への逆戻りにも怯えているし、夫含めて5人送る羽目になるかもしれないことにさらに怯えている。それ以上の可能性は考えたくもない。>


焼き場での話/骨になった祖母と帰宅した時の話

もともと小さな人だった。と言っても、いつからか急激に私より小さくなった。でも、だからお骨になっても「小さくなった」とは思わなかった。

大正時代の人にしては骨がしっかり形を保っています、と言われても、私には比較が出来ないのでどのレベルかはわからないが「説明できないくらい細かくなってしまう人もいる」と言っていたことから、わかりやすい骨が確かに残っていた、と思う。

背骨。股関節。膝。足の親指。あご。耳の穴が覗く頭蓋。のどぼとけだけは小さくなってしまっていたとの説明を受けたが、八十歳の頃に「四十代の骨だ」と医者に言われただけはあったと思う。
白い骨だった。長期間強い薬を使っていたり、人工関節などを入れていたりすると骨はピンクや緑がかったり全体が茶色くなることもあるようだったが、それはごくごく一部だった。父と母がはじめにお骨を収め、その後母と私が骨を納めた。足元から、との指示で、足の骨を納めた。

***

骨壺を仏間に下ろすと、母は「家に帰って来ましたよ。帰って来たかったよね」と声をかけた。そうだろうか。ぬくみに冷たさを内包していても<息子、嫁、孫……やはり今考えてもこの人は、その誰とも少しずつ心を掛け違えていたと思う>、この家に帰りたかっただろうか。
私はどこに帰りたいと思うだろうか。

<この時の私は、自分には安心して帰れる場所がないと思っていて、多少居心地が悪くても、帰る場所のある祖母を少し冷めた目で見ていた。>


以上が今回発掘された祖母の死にまつわる記述である。
他にも単語を並べただけのメモのようなものも多数あったが、それを文章にするのは大変骨が折れるので割愛する。

話は少し変わるが、仏教では死後の世界に行った後、そこからまた霊体としての修業が一からはじまるんだそうだ(宗派によっては解釈が異なるのかもしれない。少なくとも、私の知る範囲での話だ)。
道は一方通行で、(概念上の)上へ上へと向かっていくらしい。

葬式の最中、両親と雑談をした。「天国でおじいちゃんとおばあちゃん会うかなあ。25年ぶりの再会」なんて、他愛もないものだ。
そこで、実の息子である父が言ったのは「いや、あの二人はどちらも自分が強かった。二人で出かけようってなった日に、行きたい場所が合わなかったからって、結局別々に出かけたことのある人たちだ。25年も前に死んだじいさんは、淡々と修行して今や霊の世界でかなり偉くなってるはずだ。ばあさんを待つわけがない。ばあさんもばあさんで、急いでじいさんに追いつこうとせずに、マイペースに修行してくだろう。二人が会うのは当分ないな」という、ある種牧歌的な予想だった。

果たして、実際(この場合の「実」には議論の余地がある。なぜなら彼らは実体がないのだから)はどうなったのだろうか。
生き続ける限り、それを知る術はない。

修行説や一方通行説が間違っている可能性もあるし、彼らが会いたいと思うのは伴侶ではなく肉親かもしれない。ホームにいる間、祖母が何度も遠くの実家を恋しがったように。

祖母は、長生きした分だけ幸せだったとは言い難い。私にはそう見えた。
夫を早くに(結果的に、だけれど)亡くした。息子夫婦と同居するため、友人たちのいた長らく住んだ家を引き払い、別の土地に移り住んだ。誰ともなく体の融通が利かなくなり、友人知人らと会う頻度も徐々に少なくなる。耳が遠くなり、晩年はひとりでは電話でコミュニケーションをとることも難しかった。そもそも、親類や友人がみな先に旅立っていく。

祖母は今、どんな道をどんな風に上っているのだろう。会いたい人には会えただろうか。行きたい場所には行けただろうか。辛いことや、痛いところはないだろうか。心は穏やかでいるだろうか。
私は確かにあなたに傷つけられたことがあり、長い間、そのいくつかの傷を引きずってきた。今でもだ。絶対に一生許さないと思っていた。だから生きている間には歩み寄れなかった。だけど願わくば、その旅路が穏やかなものでありますように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?