そして、もう一生分は聴いたCDを手放した
昨年父が亡くなり、実家に誰も住まなくなった。
残されたのは、おびただしい「いらないもの」である。
父の生前から、姉とわたしは実家に帰るたび、自分たちが残していたもの、6年前に亡くなった母の古着や押し入れの奥で萎びていた寝具などを、せっせと捨て続けていた。葬儀を終えて、何気なくかつてからっぽにした2階のタンスを開けて驚いた。父が着なくなった下着を詰め込んでいたのである。わざわざ2階に運ぶならゴミ袋に詰めて外に出すほうが楽なのに、なぜゆえにこんなことを?
「歳をとるとさ、モノを捨てると自分の存在がなくなる感じがするんじゃないかな」
同じく高齢のお父さんがいる友人は言う。なるほどそうかもしれない。母は実家の建て替え時、収納スペースづくりに血道をあげた。おかげで、全室に間口一間の押し入れ、さらには納戸まである。開けても開けても、モノが出てくる。おしゃれ好きだった母の洋服は、捨てても捨てても湧いて出るがごとくで、いまだ生きている私の洋服よりずっと多い。
キッチンの天袋からは、未使用の鍋、食器、ゴルフの景品でもらったらしいサイフォンセット等々。和室の床の間には母のお琴、縁側には父専用のクローゼットがあり、背広がぎっしり詰まっている。いずれも、着る人がいれば、使う人がいれば生かされるモノたちだ。持ち主を失って「いらないもの」に成り果ててしまった。
人が死んだら、モノも一緒に死んでしまう。
死者の目で、自分の部屋を見渡して思う。もし、明日わたしが死んだら、この部屋にあるすべては死んでしまう。わたしが、生きるために必要とするすべてのものが「いらないもの」に変わってしまうだろう。明日死ぬのなら、この部屋の99%はいらない。一ヶ月後に死ぬなら、次の季節の洋服はいらない。一年後なら?ーー時間軸によって部屋のモノたちは増えたり減ったりする。いつまでも生きる前提でいるからモノは増えていくのだ。
なんだか、いつまでも生きるつもりの自分がいやになってモノを整理しはじめた。洋服は「古着でワクチン」に25kg分送った。弾いていないギターは欲しい人にあげた。もう聴かないだろうレコードは友人のお店に引き取ってもらった。場合によっては、モノは買うより手放すほうがエネルギーがいる。それもまた、歳を取ると捨てられなくなる理由かもしれない。
悩ましかったのはCDである。わたしはもう10年くらい、部屋ではレコードしか聴いていなかった。CDプレイヤーを買って聴くか、それともCDを全部引き取ってもらうか?さんざん迷ってCDプレイヤーを買った。どうしても聴きたいCDがあったのだった。「あと1ヶ月しか生きなくても聴きたい」というほどの覚悟でもないだろうが、でも、たぶんそういうことだ。
ひさしぶりのCDに、「おお、ボタンひとつで聴ける!A面、B面がない!」と30数年前の人々の感動をふたたび味わった。そして、10年ぶりにCD棚をあらためた。もう一生分聴いたと思うCD、背伸びして買ったけど実はあんまり聴かなかったCD、特定の思い出がからみついて素直に聴けないCD……。かしゃん、かしゃんとケースを積み重ねて、また友人のお店に持って行く。
棚にぽかんと空洞ができただけで、日常の景色が変わる。断捨離とか、こんまりとかではない。今のわたしにとって片付けは、生きるとか、死ぬとかをたしかめることに近い。たぶん、これからの人生ではきっと「これはもう一生分やったな」と満足して手放すことが増えていくだろうな、と思う。
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