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実家の電話番号

昭和生まれのわたしの電話の記憶は、やっぱり黒電話からはじまっている。幼稚園にあがるより前には、黒電話はモスグリーンに変わった。そのうち、ともだちの家は「プッシュホン」になったが、母はもう電話を変えようとしなかった。その後は、コードレスになるまでずっと、モスグリーンの電話のままだったと思う。

母は電話が大好きで、学校から帰るといつもおしゃべりする声がしていた。ともだち、親戚、おばあちゃん。電話口で母はよく笑い、ときに声をひそめた。「ふんふん、ふんふん」と相槌をうつのがおかしくて、姉とふたりで真似して叱られた。市内通話なら何分話しても10円、という時代。電話は、お嫁入り前の関係性をむすぶ大事なラインだったのだろう。

「この番号だけは忘れたらあかんのよ」

5、6歳の頃、わたしは電話番号を暗唱させられた。ひとりで遊びにいこうとすると、母に「おうちの電話番号言える?」と聞かれた。わたしは、番号に節をつけて歌うように繰り返してから家を出る。「なんかあったら電話するのよ!」と母の声が追いかけてくる。いつもポケットには10円玉が入っていた。

小学校にあがると、忘れ物をするたびに職員室横の赤電話に走っていって、ダイヤルが戻る時間ももどかしく番号を回した。「ママ、忘れ物した……」とべそをかくと、次の休み時間に母が忘れ物をもってきてくれる。リコーダーだの、体育館シューズだのを片手にもって高く振る、母の姿には無量の安堵があった。

この番号さえあれば母につながる。いつかけても「もしもし?」と澄んだあかるい声が聞こえて、安心できる。だいじょうぶ。そう思えていた記憶が、七桁の番号にまとわりついていたようだ。

母が亡くなり、父が亡くなり、いよいよ実家の電話番号を手放すと決めたとき、まるでアラジンのランプみたいに、電話番号からもくもくと思い出が現れてきた。わたしは思いのほか動揺して、子どもの頃と同じようにぽとぽと涙を落とした。いまだ心のどこかで、この番号さえ握っておけば大丈夫だと思っていたのかもしれない。もう、あの家には誰もいないし、あの電話もないのに。

おセンチだなと思ったけど、最後にもう一度だけ電話をかけてみた。

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