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「中島敦展」の感想

中島敦を最初に知ったのは、高校の教科書に載っていた「山月記」だった。

自尊心と羞恥心という精神的猛獣に飲まれて虎へと姿を変えてしまった男の哀しい物語…。

まさにこれは自分のことだ…、と驚きと恐怖を感じ、文学の力を知った。読書に熱中するきっかけとなった作品でもある。

しばらく「山月記」のことは忘れていたが、最近ふと、この作品のことが気になってきて、ぐるぐると考え始めてしまった。思春期も過ぎ自意識の問題は何となく解決したつもりになっていたが、どうやらそうではなかったらしい。まだ、自分という観念に取り憑かれていることに気付いた。

そんなタイミングで「中島敦展」を知ったので、これは行かなくては、と思った。

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展示を見て、中島敦の抱えていた「焦燥感」を強く感じた。

作家を目指したが思うように評価されず、病は徐々に悪化し身体はいうことを聞かない。才能と身体の限界を日々意識して苦しんでいたことが伝わってきた。彼の直筆原稿が多数展示されていたが、そのどこか頼りなく、繊細でアンバランスな字が、不安と焦燥を語っているように見えた。

ともかくも、自分は周圍の健康な人々と同じでない。勿論、矜恃を以ていふのではない。その反對だ。不安と焦躁とを以ていふのである。ものの感じ方、心の向ひ方が、どうも違ふ。みんなは現實の中に生きてゐる。俺はさうぢやない。かへるの卵のやうに寒天の中にくるまつてゐる。現實と自分との間を、寒天質の視力を屈折させるものが隔ててゐる。直接そとのものに觸れ感じることが出來ない。はじめはそれを知的裝飾と考へて、困りながらも自惚れてゐたことがある。しかし、どうもさうではないらしい。もつと根本的な・先天的な・或る能力の缺如によるものらしい。(「かめれおん日記」)


一方で、彼がノートに描いた可愛らしい動物や魚の絵がとても印象的だった。どこか気の抜けたユーモラスな表情は、その文学作品の繊細さや鋭さとは真逆な気がして、彼にとって絵は心の休息だったのだと思った。パラオの自然や暮らしに向けた好奇心の眼差しにも、のびのびとしたものを感じ、和んだ。

「山月記」のコーナーには、この小説を読んだ妻のタカの感想が書かれた紙が展示されていた。こんなことが書かれていた。

中島敦が珍しく書いた小説について話してきました。男が虎になる話だと聞き、何と恐ろしい話、と思いました。しかし読んでみると、李徴の語りはまさに中島敦の心の叫びそのものだと思いました。

実際の文章を再現できないのが残念なのだが、これを目にした時、なぜだか涙が出てきた。あの哀しい李徴は中島敦本人だったのだと、彼に最も近かった人の声で語られると胸に来るものがある。

中島敦の小説が今、多くの人の共感を呼ぶとしたら、それは今の人々が漠然とした焦燥感を抱えているからかもしれない。自己実現や自己表現、自分らしく生きることの価値が大きくなっていて、時にそれがプレッシャーにもなる。確かな自分を持てない、持たなければという現代の焦燥感が、中島敦や「山月記」の李徴が抱えていた感覚と通じる気がする。

この展示で中島敦がますます好きになった。




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