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「会ってもいいけど」 2022年5月15日週次投稿

週のはじめの記述のストレッチ、週次投稿でございます。
今週は気分が晴れたことと、最近気になっている言葉のことをいくつか書いてみようと思います。



4月のはじめくらいから散歩はうまくいかないし、本を読んでも大して面白く思えないし、どうしたものかと思っていたけど唐突に気分が晴れた。

キッカケかもと思いつくのは先週の週次投稿で、書きはじめてどう書いても退屈だったのが、下の文章を書いているうちに気分が晴れているのに気が付いた。

普段は内陸部で生活しているけど、実家のすぐ近くが海だったというのもあってかたまに海が見たくなる。電車に乗って1時間半くらいで海について、辺りをしばらく散策した。

磯で適当な岩を見つけて窪みに腰をおちつける。リュックの横の部分のネットに入れていたペットボトルの水を飲んで、海面よりすこしだけ青が濃くなった水平線をみたり、波が岩に打ちつけて空気を含んで逆に薄くなった青緑をながめる。

ーおれのカバンどこやったんだよ。
2022年5月8日週次投稿

実際に見たものを書こうとしただけだったけど、何がよかったんだろう。風景や場面を書くことにそういう効能があるのかもしれない。
実際に見たものを書く、とはいうものの、かなりの量の印象が捨象されているし、出来事の起こる順番もいい加減になっている。

海に出かけたそのときには何か違うんだよなと退屈に感じていた風景や場面を、後から書いてみようとしたときに気分が晴れるのは何故だろう。

インプットとアウトプットのバランスということがよく言われる。
バランスに気づくのは、実際にバランスが崩れたとき以外にどういう風に、またいつ気づくことになるだろうか。私はバランスはとっくに崩れているだろうに、何か変だ、退屈だ、と思って過ごしていて、何でこんなことになったんだろうと振り返るのを繰り返す。
いまのところバランスという考えに日々の過ごし方に役に立つところがあるとは思えない。私は躓いたからバランスが崩れていたと思った。私のバランスには中身がない。

効能の話に戻ると、週に一度こうして書く機会をつくっているから、その週のうちに印象に残った風景や場面を書くくらいできるだろうとも思うけど、それを頭の中に少し意識して過ごすこととその場面に出会うことは関わりあうだろうか。私の不器用はそれを意識して過ごせば日常をどう書くかで細切れにして、書きたくなるような場面自体をなくしてしまうような気がする。

散歩していて、昼寝していて、風呂につかった後にシャワーを浴びていて、思い出した場面を書ければいいんだけど、思い出したことにもならないぐらいのスピードで通り過ぎていく印象がある。
通り過ぎていった、と思うだけになる。
忘れて過ごすこと、もう思い出さないで過ごしていること、ジョイスが麻痺と書いていたようなことにさえ、どこか自分をうっとりさせるようなところがある。



上で書いたようなことと関連して、ランナウェイという言葉のことをぼんやり考えていた。ベイトソン『精神と自然』を読んで印象に残った言葉。

彼は観察の経験を基に様々な領域の中でのランナウェイを見い出していたみたいで、こんな文章を書いている。

対称型であろうと相補型であろうと、分裂生成はつねに、システム崩壊に通じるランナウェイを起こしうることに、当時私は着目した。行為のやりとりの度に強さが増し、エネルギーの補給も十分とあれば、怒りや強欲や恥辱の感情から、システムはたやすく壊れる。
グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』
岩波文庫 P.199

対称型は、Aがある行為を示すとBもそれと同じ行為を返すというようなやりとり。相補型は、Bの行為がAの行為とは異なりながらもAの行為を助長するように働くようなもの。それぞれ関係の型の例。
分裂生成は(↑ではAとBが)後戻りの効かないエスカレーションに陥る可能性を孕むような関係のこと。
この流れでベイトソンはモノと生命との違いを念頭にしながら、ある領域に見られるランナウェイに(生命の側には)自己修復システムを伴うことも記述している。

退屈と気分が晴れること。
ひとりの人間の内面にこのランナウェイが起こることをどういうかたちで考えられるだろうか。それは神経症的な内容や習慣にも関わるように思える。

ところで全然関係ないけどランナウェイでGoogle検索すると、シャネルズの『ランナウェイ』がトップに表示される。

それでふと『渋谷で5時』のことを思いだしてYoutubeで視聴した。
PVこんなだったんだ、はじめて見たかも。

「会ってもいいけど」、か。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。