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beingが書けない 2024/07/14週

久々にジョイスの『ダブリンの市民』をパラパラしていて、登場人物の多さに考えさせられる。
というのも自分の書くものは登場人物が少ないというより、自分ひとりぼっちのこともあるし、出てきて1人か2人くらい、それも自分の頭の中のその人という感じで登場人物という感じがあまりしない。
せっかく週に1回書くと決めたんだから少しでも書くのが上手になりたいという気持ちはあって、その中のひとつに書くものの中の登場人物を増やしたいという目論見があったりする。賑やかなのが好きなので自分の書くものがそうなっていたら楽しそうだと思っている。

そんなわけで誰が適当だろうとガサガサ思い出しをしていると、書くことにはアポイントメントとかがないだけに、書ける人の範囲というか、人についてどこまで書いていいのか感というのはある程度限定されるものだなと思う。身近な人を書くにしてもその人の行為や話すことをこちら側がどう捉えたかは書いていいだろうと何故かさほど抵抗なく思えるものだけど、その人がいること、かっこつければbeingを書くってのに私にはどこか許可の感覚がまとわりついている。だからnoteでも書きものに人を書けているのを見つけるとフォローすることが多い。いいなあと思う。

自分がbeingという言葉を使ったのは友人の受け売りで、その友人は自分より2歳年下だけど、アメリカでまとまった期間根を詰めて仕事をしている時期に脳に負荷が高すぎたのかドクターヘリで職場から運ばれることになった。彼が職場で倒れたとき、同僚がすぐにヘリを手配してくれたということだった。そのときの同僚の対応が早かったから自分は今こうしてここにいられる、と彼は日本に帰ってきてから私に話したのは居酒屋だったか、彼の新しい家だったか覚えていない。読む人にとってはどっちでもいいことだから、どっちで書いてもいいわけだけど、こういうのを曖昧にするのも苦手。

とにかくその彼がbeingという言葉を私に使った。リハビリでは少なくとも日常的な言葉を回復するためのトレーニングにかなり時間がかかった。あるものがない。外界の記号感覚は失われていない状態で言葉が、もしくはその対応関係がこぼれ落ちていることは大きなストレスだった。何とかこうして話はできているけど、難しいことを組み立てて話すことはまだできない。そういう状態で仕事場にいることがいたたまれない、と何年か前に彼が言ったのを覚えている。その言葉のどこかに共感したのも覚えている。
そのときの自分を何とかつなぎとめていたのは、妻や周りにいる人が、いてくれるだけでいいと伝えてくれたことだった。だからアドラーがbeingと言っているのが自分にはよくわかる、と彼は言った。
いてくれるだけでいい、という言葉はそういう意味だったのか、とはじめて知ったような気持ちになった。

近いうち飲もうよ、とLINEで伝えると、しばらくしてそれにリアクションがついている。設定の問題なのかリアクションは通知されないのですぐにそれに気づけない。それにしてもそんな病気になったことがあるのに俺よりたくさんお酒飲んでる気がするけどいいのかね。

そんなわけで登場人物を増やすことには失敗した。
何か根本的によくわかってないところがあるんだと思う。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。