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たわいもない話。

賑やかな繁華街の狭い階段を登った二階にその店はあった。赤いケトルの木製看板。少し重い扉を開けると「カランコロン」ドアベルの音と共に、ふわっと珈琲が香る。
コの字のカウンターと奥にテーブル席が3つ、だったかな。いつもジャズかプレスリーがかかっていた。

友だちのちはるちゃんに連れられて行った喫茶店。深煎りの珈琲が、濃いけれど雑味なくすぅっと体に染み込んで、その味に虜になった私は、暇を見つけては通うようになった。
最初は本を開いて静かに過ごしていたけれど、いつからだろう、カウンターに座ってマスターと話すようになったのは。

「初詣には行かないんだ、オレ」
「え?」
「神社には30日か大晦日に行くことにしてる。お礼参りみたいな。一年無事に過ごせてありがとう、てね。」
「へぇ。面白い。」
「薄暗い石段上がるの、ちょっといい感じなんだよ。お正月とは真逆。だーれもいなくてシーンと寒さが際立って。」

感心して頷いた時、

「一緒に行く?」

何気なく聞かれて、傾けていたカップの手が止まる。えっと。親くらい歳の離れたおじさんだよ。それまで男性だなんて意識したことなかった。それがなんだ?なんだよぉ。

「30日は帰省して、ます」

カップに埋もれてもごもごと返事をする私に。
「そうだよな」
なにごともなく返して洗い物をかたづけて。その話はおしまい。

就職の報告をした時、「珈琲豆送るよ」って言ってくれたのに、忙しさに身を委ねて連絡しなかった。それでもあそこに行きさえすれば会えるって思ってた。

それから何年過ぎたろう。
ふと、ある時、お店を検索した。全然出てこない。おかしいな、あそこの珈琲美味しいのに。
そして、古い誰かのブログにたどり着いて、息を飲んだ。
『いつものように看板を出す前に、カウンター内で倒れていたそうです。死因は心臓発作。』

年末になると思い出すエピソード。
今年も暮れゆく。大掃除したらお散歩行こうかな、近くの神社に。

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