【おはなし】『冷凍パンダ』
深山(みやま)さんの家の冷凍庫の奥に、小さなおにぎりほどのサイズの、ラップに包まれたパンダが凍っている。大きめのマグカップにお湯を注いでポイッと入れる。パンダがふくらんでラップが少しほどける。深めのスープ皿にお湯を張ってそちらに移し替える。パンダがまたふくらんでほぐれてくる。丼にお湯を張ってラップを取り去ったパンダを入れる。パンダがまたふくらんで少し動くようになる。お湯を入れ替える。パンダが丼から溢れる。お風呂場にバケツを持って入って、お湯をためて、キョロキョロするパンダを浸ける。パンダがバケツの中でもう大きくならないのを確かめて、
「最初からバケツで解凍すれば良かった」
と深山さんは己の要領の悪さがつくづく嫌になった。
深山さんは要領が悪い。それだけでなく、コミュニケーションをはじめ、いろんなことが苦手なので、なかなかまともに勤められなかった。今の職場も、笹原(ささはら)さんがいなかったらとっくの昔にクビになっていたと思う。
笹原さんは深山さんが働きやすい環境を整えてくれた。
「しんどかったら耳栓使っていいよ!」
「喋るの難しかったらスマホで打っていいよ!」
「メモ苦手だったら録音していいよ! 写真撮ってもいいよ!」
「気が散るならデスク、パーティションで囲む?」
「顔色悪いよ! お茶飲んで一息ついたら?」
今までどれだけ訴えても「それくらい大丈夫でしょ」とか「我慢しなさいよ」とか言われてきた苦しみが、笹原さんの適切な配慮によってみるみる軽減されていった。
深山さんは相変わらず仕事ができないけれど、クビになるほどではなくなっていた。笹原さんにならかなりスムーズに話せるようにもなっていた。
「わたし、笹原さんに感謝してもしきれません」
「なんのなんの! それより、新キャスト発表されたの見た?」
笹原さんと深山さんは大河ドラマ枠のファンだった。毎年毎年楽しく語り合った。後ろめたいところはないはずだが、Twitterのアカウントにはそっと鍵をかけた。
ところで、深山さんにはひとつだけ特技があった。
テプラがやたらと上手い。
庶務課に一台だけある、かなり古い型のテプラ、これを完全に使いこなしていた。
縦中横、罫線、段落分割、特殊記号……背幅に合わせたテープのすばやい選定、小さなボタンを迷いなく押していく様はまるで流麗な演奏のよう。あっという間にラベルシールを作成してしまう。
「えっ、テプラってそんなことできたの?」
「それだけ使いこなしてくれたら、キングジムの人、泣いて喜ぶよ」
「ミヤマとテプラ、って、似てるよな」
似てないよ。
ともあれ、テプラに関してだけは口々に褒められる深山さんを見て、笹原さんは嬉しそうにニコニコするのであった。
ちょっとしたイタズラ心で、「笹原」と十枚打ち出すよう頼まれたものに一枚プラスして、名前の両側を猫の絵文字で挟んでいるものを作って渡した。
「あ! こらこら、会社のもので勝手に遊んで」
「すみません」
「ウソウソ、使う使う。ありがとう!」
笹原さんは手のひらで大切そうに包んで、愛おしそうに眺めてから化粧ポーチに放り込んだ。
ある日、笹原さんは個人的な用事で午後休を取って早退した。その午後に、深山さんはパンダの絵文字のテプラを一つ打ち出した。笹原さんが帰ってしまって寂しくて拗ねたのかもしれない。理由はハッキリしないが、気がついたらパンダのラベルが出来ていて、作ってしまったからには、と、手鏡の端にこっそり貼り付けた。そして撫でた。撫でるとぷっくりとふくれた。立体シールのようになった。
「え?」
もう一度撫でて感触を確かめると、むくむくふくれてパンダが出てきた。それは本物のパンダではなかったけれども、ひと抱えくらいの大きさで、辺りを見回していた。
深山さんは悲鳴を上げた。パーティションから乗り出したパンダに、周りもざわついた。
「えっ、テプラってそんなことできたの?」
できないよ。
深山さんはしかたないので、自転車の前カゴに入れてパンダを連れて帰った。本物のパンダよりはずっと軽くて助かった。
【聞いたよ!パンダ出てきたから持って帰ったんだって?】
夜に笹原さんからLINEが来た。深山さんは写真を送った。
【パンダだね~】
【うちは狭いので場所をとります】
【ぎゅっとしたら小さくならない?】
【ぎゅっとしてみます】
パンダをぎゅっと抱きしめて眠ったら、翌朝には小さなおにぎりほどのサイズになっていた。ラップに包んで冷凍庫に入れた。
それをさっき解凍した。
「お久しぶりですパンダさん」
パンダをタオルで拭きながら深山さんは語りかけた。
「笹原さんが、東京に出向されるそうです」
「笹原さんって良い名前ですよね」
たぶん、竹本さんとかでも同じことを言うのだろう。パンダだから。
「名前以外もとっても良い人です」
「そうですね」
「四年は帰ってこないそうです」
「それは寂しいですね」
「寂しくて不安です」
泣き出した深山さんの頭を、パンダがそっと撫でる。
「ぎゅっとしますか、久しぶりに」
深山さんは頷いて、白黒の身体にドライヤーをかけはじめる。
「涙とあなたが乾いたら、ぎゅっとして眠ります」
深山さんの家でパンダがだんだん小さくなっていく夜、笹原さんは、彼女宛ての長い長いLINEの下書きをしている最中に寝落ちしてしまう。
ベッドの上には、笹原さんを挟むように、二匹の猫が丸まって眠っている。
(おしまい)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?