【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ八(2/4)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約3300文字)
弥富と弥栄から出てくるのは、今日も街娼たち、の中でも特に春駒の、噂話に愚痴ばかりだ。
「漁りに出たってのろまなもんだから、捕まるようにもなってきてさ。初めてだの騙されたのって言い逃れて、逃げおおせ切れている、みたいだけど」
何のかの言って女達の間にも、序列や立場や融通があり、年端も行かない実質素人に対して彼女たちは、全体がだらしなく思われないよう、世話を焼いて行儀を教え込まずにいられないらしい。
「いっぺん捕まっちまった方がいいんじゃないか」
「え?」
意外そうに見開いた目を、二人分向けられたけれど、負けずに不興げな面持ちを作っておく。
「あたし達は、別に……」
「あの子がどうなろうと知ったこっちゃないんだけど……」
「いや。先行き物騒じゃねぇか。一時は解放、とか言いやがってたんだぜ国は。言うだけじゃなく実際に、開け放してよ」
当時を思い返したらしく弥富の口からは重い溜め息が漏れた。
「吉原だけならともかく、姉さん達の辺りまでそんな話にでもなっちまったら、俺どこ行きゃあ良いんだよ。張り合い無いっての」
口調はあくまでも、本当には事情など察してもいない馬鹿っぽく、馬鹿なりに一途に思い込んだ風情で言ってみると二人の方では、目を見合わせて軽くなめた感じに笑ってくる。
「そんな事言ってあんた……、このところ、夜分に訪ねちゃ来ないじゃない」
「他所に誰かしら出来たんじゃないの? なんてこないだも、二人で話していたんだけど」
「言ったろぉ。夜遊び癖がバレてこのところ、仕送り減らされてんだって」
ははははは、と笑ってみせる様子は自分でも、白々しく感じたが、そもそもが遊びに演技を楽しんできた間柄で、本当の事なんか何一つ語り合っていない。
「俺は姉さん一筋ですよ。姉さん以外にそんな、楽しめる相手なんか」
せいぜい嘘だけはつかない程度に、収めておくくらいだ。
「お友達は今日もくっ付いて」
まるで聞こえてもいないみたいに弥富は、目線を芝居小屋通りの対面に移す。
「私達からは、離れて様子を窺ってるみたいだけど」
「あの子本当にお友達?」
人前でわざとみたいに絡んでくるのは弥栄の方だ。
「あんた、実は兇状持ちだったりして。あんたが悪さしないように見張ってる、とかさ」
「おいおい。兇状持ちがこんなのらくらと、浅草くんだりまで歩くかよぉ」
弥富は笑みを浮かべつつ眺めながら、煙管に遠火で火を入れる。
「仮にそうだとして罪状は何だい? 俺ってどんな悪党に見える?」
「人殺し、はないねぇ流石に」
「ケチな泥棒とか掏摸とか」
「おいおい。どう見えてんだ俺は普段」
「詐欺師、とか」
煙を吐きながらの弥富の眼差しに瞬間だけ、熱がこもった。非難めいた色味だったが楠原には、自分が弥富に対して非難されるほどの、何かをしたとも思えない。
「単におうちの人からはガキ扱いで、お目付役が必要、とかね」
「言えてる」
袖に隠してコロコロと、弥栄は笑い声を上げるけれど、楠原はバツが悪そうに目を伏せて、いつものような軽さでは応じ切れずにいた。すると笑いやめた弥栄が眉をひそめる。
「やだあんた」
「え?」
「ガキ笑われてふくれてるようじゃ本当だよ?」
しくじった、と気付いた時点で遅く、目を移した先で弥富の微笑みは美しい。塗り込められた美人画のように。
「遊びの加減も分からないガキさ」
距離を空け、壁を作ったからだ。弥栄と目線で合図して、楠原などは見も知らぬ他人のように、二人並べた背を向けて歩み去って行く。
「ちょ、と待ってくれよ。その……」
姉さん、などという気安い呼び方ももう、許されていない。思わず腕に手を、伸ばしかけた肩が翻り、ホッとしかけたところに煙草の煙を吹きかけられた。
良い香り、だが当然に煙い。目を固く閉じて咳き込んだすぐ頭上で、
「おうちに、お帰り。坊や」
胸を突き刺すほどやわらかな声が降りかかってくる。
「お母さんが、心配しているよ」
反射的に湧き出そうになった涙を、知られたくなくて、これを最後にされると分かっているのに、顔を上げる事すら出来なかった。
二人が充分に遠ざかり、胸の奥に深い息を何度も通してようやく、楠原は顔を上げて田添が待つ通り沿いへと向かった。憮然とした表情を作りながら歩んで行ったので、何事かを語り出す前に、
「どうした」
と田添の方から訊ねてくる。
「何か……、フラレちまった。それも随分と、みっともなく」
ふむ、と呟いただけで田添も、楠原には背を向けて、芝居小屋からは離れる方へと歩き出す。楠原もその後を付いて行く。
「結構な事だ。俺もお前も、あの二人からの話をそのままでは受け止めてなんかいなかっただろう」
もちろん田添からは、ただ情報源としての信頼性だけを気にされている。
「何も、そのためだけで付き合ってたわけじゃ……」
「便宜、だと以前に話していたじゃないか。一種の方便、だとな」
自分の方ではとっくに忘れてしまった言い回しを、随分と正確に覚えているものだ、と楠原は、ちょっと面白い気にもなったのだが、
「利用していたのなら、せめてその自覚くらいは持っていろ」
文言の流れにこのところ、気になり続けていた事がこぼれ出た。
「……お前は手を下しちゃいないよな」
違和感に足を止め田添は、振り向いてくる。
「何をだ」
慌てて口を押さえたが遅い、と言うよりその仕草自体が、間違っている。
「いや。別に。なんでもない」
「なんでもない、で飛び出すような言い回しじゃなかっただろう」
互いの素性に本名は、聞き出しても聞き出されてもならない事に、なってはいるが、周りから徐々に知れてしまった場合にどうすれば良いか、具体的な取り決めは存在していない。しかし田添がそれを酷く嫌うだろう事は分かる。
「さてはお前……」
田添の目つきが存分に険しくなっていく中で、
「あっ!」
とあらぬ方向を指差して言ってみると、
「何だ?」
とあっさりそちらを振り向いてくれた。冗談みたいな話だけど、こんな手にも田添は思い切りで引っかかる。
目線が外れている間に逃げ隠れて、田添からはまるで消えたみたいに思えて驚いた様子だが、
「……あの野郎」
瞬間だけですぐ怒りに変わった。
「そこの芸者二人連れ!」
なかなか呼ばれない感じの声を掛けられて、立ち止まった二人が振り返ると、いつも遠巻きに眺めていただけでこれまで寄り付こうともしなかった男が、今はただ一人で向かって来る。
「弥富と、弥栄だったな。楠原は、戻って来ていないか」
二人がゆったりと顔に目線を見合わせて、吹き出し笑い出す合間もあからさまに、やきもきしている。
「戻りゃしないよ。戻ったところで私の方で、相手にしないし」
「近寄って見りゃアンタも可愛い顔してんじゃない」
弥栄の方が近寄って行って白い腕を、田添の右の頬へと伸ばした。
「怖くないよ。女って。一度くらい、ねぇ遊んでみない?」
しかしその指が頬に、触れるか触れないかくらいのところで田添は、身を引き奥歯を噛み締めると、
「……寄るな。気色が悪い」
と心底苦り切った声で言い出してしまう。そして腹立たしげに背を向け立ち去っていくかに思われたが、クルリとまた二人の正面に向き返り、
「失礼は、謝る!」
とだけ言い残してやはり去って行った。もちろんだが芸者二人は大笑いした。
その後も田添は浅草中の、楠原が、これまでに行った場所や行きそうな場所を的確に訪ね回っては中を覗き、店の者たちや顔見知りの客にも楠原が来なかったか問いただし続けて、楠原自身が次に店を訪ねるのが億劫になりそうなほどだ。気配を消し通行人に成り済ますのは大得意なので、田添の後を追いながら、楠原の方では内心頭を抱えていたのだが。
自分を見失ったくらいでなぜそこまで、取り乱すみたいに真剣に行方を捜し出そうとするのか、楠原には「見えている」のだが良く分からない。自分は田添に対してそこまでの、何事もしていないつもりでいる。
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