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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ三(4/4)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約3400文字)


 正面玄関から入って中央に、堂々とそびえる赤い布張りの大階段は、素通りして、
 便所前の廊下に突き出した、古い木造の、ひと踏みごとに腐りかけっぽい板がギシギシと鳴る階段を上って、中二階の廻し部屋に入る。
 廻し部屋、という響きに表れ出ている通り、雑な部屋だ。天井も低く日も射さない、年がら年中湿っぽい空間は、二十畳と広さだけは充分にあっても、そこかしこの壁際に間仕切りの屏風を立てて、十分十五分でコトを済ますだけの場所でしかない。
 真っ昼間、だと言うのにそれはそれで二つ三つの屏風が立てられて、内側からそれらしい物音に声色も届いてくる。苦笑しながら屏風を立てペラッペラの敷物に座り込んで待っていると、やがて部屋の障子戸が開く音がして、畳を滑る衣擦れが近付き屏風の端の暗がりから、店の女が顔を覗かせてくる。
「よぉ、静葉」
「楠原さん……」
 怒っている、と言うよりは、相当に呆れている、のさえ通り越して、憐れんでいる。この田舎出の頭も弱そうなお坊ちゃんに、何からどんな具合に言い聞かせてやれば、こんな所にでもある程度は存在する礼儀や節度というものを、機嫌を損ねず心得てもらえるのだろう、と考えあぐねている色味が顔の全体に広がっている。
 田嶋屋の静葉は実を言うと、江戸で言われてきたところの花魁では、ない。
 花魁とは娼妓の中でも最高峰、国賓のお歴々にお見せしても、条件によってはお渡ししても恥ずかしくない、金に技術を注ぎ込み美しく磨き上げた芸術品だ。吉原自体が公許でもなくなった今、表向きには存在すらしていない。客の男共が皆言いたがるから、好きに言わせてやっているまでだ。
 静葉は江戸で言うところの「部屋持ち」に当たり、格下でもないが手も届かないほどでもない、中くらいの身分にいる。更には店の格も中くらいで、良く言えばちょうどいい。
 とは言えさすがに廻し部屋に呼ばれる事など、店に入り立ての一年目二年目頃ならいざ知らず、ここ数年に渡っては無かったはずだ。器量は良い方だから入り立ての頃にすら、それほどあったかどうか。
 屏風の内には入ったものの、腰は浮かせ、距離も空けた端際に膝だけを付けてくる。
「その……、ねぇ」
 さすがに場所柄がひどいのか、お得意の「ねぇ」にも精彩が無い。
「お銚子、一本でも入れてくれない? だってこんな所じゃ、あまりにも……」
「いいんだよ静葉。俺、フッてくれても」
 この場合は「相手をされずに放ったらかされたまま刻限が来て帰される」事だが、それを自分から願い出る客も珍しいだろう。
「え?」
 丸く見開かれた両目は化粧越しにも素朴に見えて、珍しいものが見られたと、少し得した気分にもなった。
「そりゃあ俺だって、こんな、自分で言うのも何だがしょぼくれ切った端金で、あんたとちょちょいと楽しめるたぁ思ってねぇって。だけどさぁ」
 思っている以上に大袈裟に、苦り切った顔を作って見せる。
「あんた、正直に言っちまうと高ぇんだよ。夜になりゃ上客もひっきりなしで、顔見世になんか出やしねぇ。俺が入り込める隙間なんざねぇじゃねぇか。だったらどうするよ。旦那方が働いてる時分に、旦那方なんか鼻で嘲笑う下卑た所に、お呼び立て申し上げるしかねぇだろう。俺の方はもうどんなんだっていい、顔が見られるだけでも良いから、ただあんたに会いたいんだから」
 あら、とまんざらでもなさそうに作った顔に、(そのくらいの事は言われ慣れてるのよ)が浮かんで見える。だがそこは承知でへらっとした笑みを強めて見せる。
「あんただってどうだよ。毎日毎晩御立派な旦那衆相手じゃ、気が張って肩が凝ってしょうがねぇや。たまには俺みたいな下賤、手のひらで好きなように転がしとくってのも、気分が良かねぇかな。なんだ、江戸の芝居物みてぇにさ」
 プッと吹き出す中に見えた(田舎者)には、気付かないフリでへらへらの笑みを崩さずにおく。笑みを見せておいた方が、いつの間にか少しずつ、間合いを詰められている事には気付かれにくい。
「貴方って……」
 クスクスと、うつむきながら笑い続けた間に整えたようだ。上げてきた顔は、特に目付きは、すっかり「店の女」に作り込んである。
「随分、図々しいのね。とどのつまりお金が稼げない、言い訳じゃなくって?」
「だから、フッてくれて構わねんだって。たまにでも顔見られて、まぁ、まれにでもやれたら」
「そこは諦めていないわけね」
「男なんてもんそこ諦めて、他に何の仕事があるってんだよ」
 間合いを一気に詰めたければ、ワケも分からない事口から出るままに、まくし立ててやった方がいい。
「俺に言わせりゃ男の方が、どうしようもねぇ病気持ちだ。年がら年中やわらかいもんあったかいもんに飢えまくってて、そばに寄りたくって触りたくってしょうがねぇ」
 相手に考える暇どころか、物を思う隙すら与えない。所々で引っ掛かりそうな言い方をして、ピクッ、ピクッと引きつれる程度にさせておく。
「ほんのちょっとでも笑ってくれりゃあ、指の、一本でも差し伸べてもらえりゃあ、それで薬になっちまう。ってか劇薬だ。俺ぁもう、あんたに会えなきゃ正直何もかもがやってらんねぇ。いつだって、その気になりゃあ会えるんだって、嘘でも自分ごまかしてでも、思い込んでなきゃ」
 ふわっと浮かび上がった(何?)は、(ちょっと、気味が悪い)はむしろ、掴んでおく。
「気味が悪いのは当然だよ。あんた達はずっとただ、損してんだから」
 まるで口にしてしまったみたいに思わせる。
「あんた達はどこで、どんな具合に生まれたって、男なんかよりずっとキレイでずっと上の方の高みにいて、地べた這い回ってる連中から、ただ引きずり下ろされるだけなんだから」
 多少の悪い気にもさせただろう、と思った瞬間に、腹の底からは長く溜め置き過ぎて自分でも中を覗きたくない、腐りかけみたいな想いが飛び出してきた。
「はっきり言っとくとな静葉、俺は、どこの誰であれ男なんてぇ生き物が、女を心から、魂の底から喜ばせ切れた事なんか、ただの一度だってねぇだろって思ってんだ。本当に」
 口にした時点で嫌になって、こみ上げて来そうな反吐を吹き払った。近寄るのはやめて腰を据え、「へはっ」と飛び出した笑い声に合わせて、背中から肩から力を抜く。
「どうせなら気に入った奴、いや、何も気に入っちゃいないまでも、気になる奴気が合いそうな奴から引きずられる方がマシじゃねぇかなって、ただそれだけの話だよ」
 静葉の顔にはまだ(気味が悪い)が残っていたから、それならかえって遊びみたいに、言ってみせた方が落ち着けるんじゃないかと思った。
「どうだい。乗ってみちゃ。まさか田嶋屋の静葉だけが泥かぶる話にもならねぇだろ」
 名前を呼ばれて静葉は、我と言うより自分の立場に返ったようだ。
「いいの? 私は本当に、フッちゃうけど」
「結構ですよ。次の楽しみが増しますから」
「フラれて店の若い子達に、手を上げたりとか、乱暴な口を利いたりなんて、しないかしら」
「しませんよそんな。花魁の護衛衆に」
 我ながら白々しく思いながら、頬の端までにんまりした笑みを広げ切ったところで、限界が来た。
「でもちょっとだけ触らせてっ」
「いやっ!」
 すでに無礼は重ね続けていたから、叩き出されるのも剣呑だし両腕に、抱きすくめるだけにしておく。(あら本当にこれだけ?)と呆れたような静葉の背中からも、力が抜けて行く。
(あら?)
 すると顔の方には表れ出ない色味も、浮かんできた。
(私はこの人に、会った事があるのかしら)
 色味は次々と、吹き出してくる。長く溜め置いた汲み水の底からどちらかと言うと濁った色が、ブチブチと途中から千切れたように。
(覚えてないわ。だって。あの頃は何もかもが。嫌で。見えるものも聞こえるものも。全部が。真っ黒で。好きに、なれるかもって思えた人も。締め出して。頭の中から追い払って。そうじゃなきゃ。私はとても耐えられないって。だから)
 ひと通り吹き荒れて収まった後には、やけにきっぱりした色味だけが残っていた。
(覚えてない。何も、思い出せないわ)
 何だ。コイツもしっかり壊れてたんだなって、少しばかり残念な気もしたけど仕方が無い。とっくの昔に壊れていて、ずっと壊れ続けている中に誰もが、生まれ落ちてんだから。


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罰ノ四 耳が汚れる


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