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「集団浅慮」に思う

  最近ニュース番組で知ったワードなんだが、
  「勤勉なドイツ国民がなぜナチスに与してしまったのか」
  という反省から研究されてきた分野との事だったが、

  勤勉なドイツ国民、が前提にある時点で既にアウト。

  笑い事じゃない。
  それを聞いて頷いた我が国民も、
  どこの国の国民も軒並みアウト。

  当時のベルリンは実に美しかったらしいんだよ。
  違和感のある者が一切視界に映り込まない。

  胸に手を当てて考えてみて欲しい。
  その中にあって遠く離れた収容所の内部を、
  真実に気に掛け切れる自信はあるか?

  私は「知らなかった」と泣き崩れる老婦人を、
  「嘘をつけ」と引きずり立たせて、
  収容所をくまなく見せ付けた事実も悲しく思う。

  同じように行動する集団に囲まれて、
  秩序が保たれ安心に思えている時こそ、
  「違って見える者は果たしてどこにどれだけいて、
   どう過ごしているのか」を、
  気に掛けていなければならないし、

  安心できている最中であっても、
  発砲音がしたならまず身を屈め切れなくてはならない、
  と私は常日頃思っている。

  しかし普通思っていられない。
  しんどいしヒマじゃないから。
  要するに余裕など「自ら作るものだ」と嘯かれて、
  そもそも与えられていないから。
  (「周囲と同水準であれ」という圧力の、
   強力かつ無慈悲で思考を奪う事ときたら!)

  洗脳、に意図やノウハウなど存在しない。
  「これが正しい」「あるべき姿だ」と思い込んだ集団の、
  群体的思考と価値観、
  それに基づいた言動があるだけだ。

  未だに思い出すと吐き気がするほどの
  「生き直し」を受けていてなお、
  「あれは正しかったんだ」
  「私は本当に誰の目から見ても気持ち悪かったんだ」
  と思わされてその度に気が狂う。
  これがまた、
  「親を大事に」とか、
  「みんなのために」とか、
  「孤独は良くないよ。居場所を作ろう」とか、
  道徳的文脈で語られているから尚更だ。
  似通った文脈は世に満ち溢れていて、
  意味が異なるとしても身体が強張る。


  もう少しくらい一人一人が己の頭で考えろ。
  一人一人が、だ。上下も貴賤も関係無い。



  議論すらも道徳に一般観念の枠内で行っている上に、
  一般観念すなわち多数派でさえあれば、
  素直な気持ちを語っても大丈夫だと思っていやがる。
  私は正直ネットもテレビも常に怖い。

  悪口は私(みたいな人)を指してるように聞こえるし、
  イジられて笑われているのは私(みたいな人)に思える。
  しかし私はお笑いを否定しない。
  彼らはギャラをもらえているプロだからだ。

  言い方を変えて繰り返す。

  笑うんだったら金よこせ。
  ヒトを見下して気分が良くなった分を支払え。
  めっちゃもらえて生活出来るなら文句言わねぇ。
  金も受け取っていない一般市民を、
  笑って良い道理など無い事くらい考えて分かれ。

  「集団と異なる」点を異常に感じ、
  嘲笑うか無視するまでならともかく、
  変えてあげなきゃ、
  変わらないなら集団の迷惑だから排除しなきゃ、
  みたいに思えている相手はもはや、
  集団に属する者の目にヒトではない。

  私は極力所属したくない。
  なるべく個人で考える。
  過去の自分すらも他人なんだが、
  少なくとも私を常にヒトだと思い続けてくれたのは
  私(の脳内ですら3分の1)だけだ。

何かしら心に残りましたらお願いします。頂いたサポートは切実に、私と配偶者の生活費の足しになります!