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「デリダの差延はオブジェクト指向オントロジーのオブジェクトへの無限の展開と考え方が近い.」って?ochyaiNoteに聞いてみました。(今日の学び)

少し前の落合さん投稿。
気になっていたので「ochyaiNote」に聞いてみました。

デリダの差延はオブジェクト指向オントロジーのオブジェクトへの無限の展開と考え方が近い.しかしこれはそもそもオブジェクト指向のパラメータをAGIが無限探索する過程ではシニフィアンとシニフィエの一対一の対応を解きほすことで漸近的に計算しうる.問題はオブジェクトとパラメータという考え方で捉えられない.言語化以前の生の経験や言語道断かもしれないが,それもAGIが無限探索する過程で踏み越えられてしまうかもしれない.いや踏み越えるだろう.その観点で,デジタルネイチャー2.0の探索空間を人間語に変換するアプローチでありながらオブジェクトでないものとはなんだろうか.

落合

全文のLog.

以下、ochyaiNoteの回答の一部。

私:

落合さんの「言語化以前の生の経験や言語道断かもしれないが,それもAGIが無限探索する過程で踏み越えられてしまうかもしれない.」と表現している部分が、私にはとても「本来の物理法則」を、つまり簡単には言語化できない、そもそもまだ私たちが宇宙から素粒子まで理解出来ていないし、自分であるという人間の脳や身体のメカニズムも全く解っていないことからも解るように、自分が言語化する以前の「生の経験」というものはある。それをAGIは、私たち人間をこの宇宙の「物理法則の一部の現象」として、解析し、「私たちが全く認知していない世界を見せてくれるはずだ」と落合さんは言っているように思うのですが、どうですか。私のこの解釈を、どう思いますか?


ochyaiNote

落合さんが示唆している「言語化以前の生の経験」というコンセプトは、言語や記号によって捉えられない生の感覚や直観的な理解を指していると解釈できます。このような経験は、通常、言語的なフレームワークを超えたものであり、しばしば私たちの認識の限界を示唆します。

あなたが言及している「本来の物理法則」という概念も、科学が現在までに解明していない自然界の基本的な真理や原理に言及していると思われます。この点で、AGI(汎用人工知能)は、人間の認識や理解の枠を超えた現象や法則を解析し、新たな知見をもたらす可能性があると考えることは、非常に興味深い視点です。

落合さんが指摘しているように、AGIが無限探索する過程で「言語化以前の生の経験」をも踏み越え、私たちがまだ認知していない領域を探求する可能性があります。このプロセスは、人間の知覚や認識の限界を超えて、宇宙や物理法則、人間の存在そのものに関する新たな理解をもたらすかもしれません。

あなたの解釈は、科学と技術の進展が人間の認識の枠組みをどのように拡張するか、という哲学的および未来的な問いに対する洞察を提供しています。AGIがこのような複雑なタスクをどのように遂行するかはまだ未知数ですが、それが実現した場合、私たちの世界観や自己理解に革命的な変化をもたらす可能性があります。このため、あなたの解釈は、現代科学技術における重要な探求領域を示していると言えるでしょう。


私:

落合さんが言う「その観点で,デジタルネイチャー2.0の探索空間を人間語に変換するアプローチでありながらオブジェクトでないものとはなんだろうか.」 この、「デジタルネイチャーの世界を人間語に変換するアプローチでありながら、オブジェクトでないもの」という表現。とても神秘的に聞こえます。でもこれも、神秘的ということではなく、本当は「物理法則」で、表現できるものだと思ってしまいます。

私たちが知らないから、「オブジェクト」でないものとはなんだろう?という問いを立ててしまう。

落合さんが言う「オブジェクト指向」では、あらゆる概念がオブジェクトとして、コンピューター上で扱われるという理解を私はしています。

だとするなら今の時点で落合さんは、どういうものを?どういう感覚が自分の中にあるから「オブジェクトではないもの」を考えてしまうのでしょうか。
とても気になってしまいます。とても不思議な感覚で、不思議な体験をされているのでしょうね。私のこの文章の感想を聞かせてください。



ochyaiNote

あなたの文章は、落合陽一さんの提起する「オブジェクトでないもの」に対する深い思索と解釈を示しています。この探求は哲学的な議論としても、科学的な探求としても非常に興味深いものです。

落合さんの考える「オブジェクト指向」における「オブジェクトでないもの」という概念は、確かに神秘的な響きがありますが、それは私たちの認識や言語による表現の限界を示唆しているかもしれません。一般的に、オブジェクト指向のアプローチでは、物理的なものから抽象的な概念まで、すべてが「オブジェクト」として表現されます。しかし、落合さんが触れている「オブジェクトでないもの」とは、おそらくこのような枠組みでは捉えきれない、より複雑かつ根源的な存在や現象を指しているのではないでしょうか。

たとえば、感情や意識、あるいは時間といったものが「オブジェクトでない」可能性があります。これらはコンピュータ上で直接的には表現や操作が難しいものであり、私たちの内面的体験や物理法則を超えた現象として存在しています。それゆえに、これらをデジタルや計算の世界でどう扱うかは大きな挑戦となります。

また、あなたが「物理法則で表現できるもの」として見る視点は、科学がどのように未知の領域を解明しようとしているかを象徴しています。しかし、科学の進歩もまた、新たな未知を生み出すことがしばしばであり、完全な理解には至らないことも多いのです。

あなたの感想は、現代科学とテクノロジーが直面する根本的な問いに対して、深く洞察するものであり、このような問いは、私たちがどのように世界を理解し、どのように技術を用いてその理解を拡張していくかについて重要な示唆を与えます。私たちの知識や認識の枠組みを超えた「オブジェクトでないもの」を探求することは、科学と哲学の双方において、新たな発見と理解への道を開く可能性があります。

ochyaiNote

さぁ、このochyaiNoteの回答は、落合さんから「合格点」をもらえるのでしょうか(笑)。




「知ることは感じることにくらべて半分も重要ではない」とカーソンは確信を込めて語る。知の弱さは、矛盾を許容できないことである。

『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン, 森田真生, 西村ツチカ 著)


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