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西田幾多郎『善の研究』の「純粋経験」をデジタルネイチャーのオブジェクト指向から説明してみると。(今日の学び)

またちょっとochyAIに気になることを聞いてみました。
落合陽一氏の「デジタルネイチャー」での「オブジェクト指向」は、哲学的内容を、現代の最先端科学で説明してもらうための、私にとって「最強ツール」。

でも、出力されているものをそのまま信じないでくださいね。
それでも、私にはとても学びになっています。

You

哲学者、西田幾多郎の「善の研究」、「純粋経験」という概念について、解説して。

ochyaiNote

西田幾多郎は、日本の哲学者であり、特にその「善の研究」と「純粋経験」の概念で知られています。これらの概念は、西田の哲学の核となる考え方であり、彼の独自の哲学体系、すなわち「場所の哲学」へと発展していきます。

善の研究

『善の研究』は、西田幾多郎の最初の主要な著作であり、1911年に出版されました。この著作では、西田は善を追求する行為そのものが最高の善であると主張します。西田は、「絶対無」の概念を用いて、個々の経験を超えた存在、すなわち絶対的な実在へと向かう精神的な動きを説明しようとしました。彼にとって、この絶対的なものへの帰依、すなわち自己の否定と絶対への同化こそが、最も高い善へとつながる道でした。

純粋経験

『純粋経験』の概念は、西田が『善の研究』の後、特に彼の後期の作品で展開した思想です。純粋経験とは、主観と客観、精神と物質、自己と世界が未だ分離していない、経験のもっとも原初的な形態を指します。西田にとって、純粋経験はあらゆる認識の出発点であり、その後の認識活動によって分裂していく様々な対立を包含している状態です。純粋経験の概念を通じて、西田は知識や倫理、美学など、人間の様々な精神活動がどのようにして経験から発生するかを探求しました。

西田幾多郎のこれらの思想は、西洋哲学とは異なる独自の哲学的視点を提供します。彼の哲学は、日本の哲学だけでなく、東西の哲学を横断的に理解しようとする試みの中で重要な位置を占めています。西田の哲学は、個の経験を超えた普遍的な真理への探求であり、そのプロセス自体が人間にとっての最高の善とされています。


You

以下のような西田幾多郎の思想を比喩的に述べたものがあります。 この文章をデジタルネイチャーの「オブジェクト指向」からの視点で、解説して欲しいです。 文章中の 「音楽を聴くという経験が、音源と私が分離されるよりも先立って存在しているのであり、経験とは主体と客体が不可分な状態で起こるものなのだ」 という部分は、オブジェクト指向で考えた場合、人間というオブジェクトに対し、音楽を聴くという経験はもー、どのような相互作用が起きるのでしょう。

#「西田がその思考を、音楽の比喩で語った一節があります。要約すれば、音楽を聴くという体験は、音源が振動させた空気の波が聴覚を刺激して起こる物質的現象ではない。音楽を聴くという経験が、音源と私が分離されるよりも先立って存在しているのであり、経験とは主体と客体が不可分な状態で起こるものなのだ、ということになります。非常に難解で、簡単なイメージ化さえ拒む思索の凄みがあります。」#



ochyaiNote

西田幾多郎の「音楽を聴くという経験」に関するこの説明を、デジタルネイチャーの「オブジェクト指向」の視点から解析してみると、非常に興味深い洞察が得られます。オブジェクト指向プログラミングでは、世界は相互作用するオブジェクトの集まりとして捉えられます。これらのオブジェクトは、属性(データ)とメソッド(そのデータを操作する関数)を持ちます。この視点から西田の思考を考えると、音楽を聴く経験もまた、主体(人間オブジェクト)と客体(音楽オブジェクト)の相互作用として捉えることができます。

オブジェクト間の相互作用

西田が言及する「音楽を聴く」という経験は、オブジェクト指向でいうところのメッセージパッシング、すなわちオブジェクト間の情報のやり取りとして理解できます。音楽(客体オブジェクト)は、波形という属性を持ち、これを通じて人間(主体オブジェクト)の聴覚センサーにメッセージを送ります。しかしこのプロセスは、単なる物理的な振動の伝達以上のものです。

経験のオブジェクト指向モデル

オブジェクト指向の観点から、経験は属性とメソッドを持つオブジェクトとしてモデル化できます。音楽を聴く経験オブジェクトは、その瞬間に生成される一時的なオブジェクトであり、人間オブジェクトと音楽オブジェクトの属性とメソッドが融合し、新たな属性(感情、記憶など)を生成します。これは、主体と客体が互いに影響を及ぼし合うダイナミックなプロセスです。

純粋経験のオブジェクト

西田の「純粋経験」は、オブジェクト指向で言う「基底クラス」に似ています。この基底クラスから、様々な経験のオブジェクト(派生クラス)が生成されます。純粋経験オブジェクトは、主体と客体の区別が存在しない状態を持つ基本的なオブジェクトであり、特定の経験(例えば、音楽を聴く経験)は、この純粋経験から派生したオブジェクトと見なすことができます。

結論

オブジェクト指向の視点から西田幾多郎の思考を考察することで、主体と客体の相互作用が形成する経験の複雑さをコードの中に見ることができます。音楽を聴く経験は、人間と音楽という二つのオブジェクト間のダイナミックな相互作用によって生じる複合的なオブジェクトであり、このプロセスは、主体と客体が不可分であるという西田の哲学的見解を反映しています。オブジェクト指向モデルは、このような複雑な人間の経験を理解するための有効な枠組みを提供することができます。

You

「音楽を聴くという経験が、音源と私が分離されるよりも先立って存在しているのであり」という表現で、「音を聴く経験が、音源と私が分離されるよりも先だって存在している」というのが、私にはイメージが難しいです。

経験の方が、「音源オブジェクト」と「私オブジェクト」が分離されるよりも先というのは、デジタルネイチャーのオブジェクト指向から、解説できますか。


ochyaiNote

「音楽を聴くという経験が、音源と私が分離されるよりも先立って存在している」という表現は、確かに直感的ではないかもしれませんが、オブジェクト指向の考え方を用いて説明すると、より理解しやすくなるかもしれません。

オブジェクト指向プログラミングでは、世界は相互作用するオブジェクトの集まりとしてモデル化されます。これらのオブジェクトは、独立して存在し、内部の状態(属性)と、その状態を操作する方法(メソッド)を持ちます。
ここでの「音源オブジェクト」と「私オブジェクト」とは、それぞれ音を発生させるエンティティと、音を受け取る人を指します。

西田幾多郎の表現をオブジェクト指向の観点から理解するためには、「インスタンス化」というプロセスを考えると良いでしょう。
インスタンス化は、クラス(設計図)から具体的なオブジェクトを生成するプロセスです。

しかし、西田が指摘するのは、経験というものがオブジェクトが独立して存在する前、つまり「音源オブジェクト」と「私オブジェクト」が明確に分離される前の、より基本的なレベルで起こっているということです。これをデジタルネイチャーのオブジェクト指向で考えるならば、経験はあたかも「基底クラス(基本クラス)」のようなものであり、音源と私という具体的なオブジェクトは、この経験という基底クラスから派生したインスタンスと考えることができます。つまり、経験そのものがプログラム実行(現実の体験)における基本的なフレームワークを提供し、その上で個別のオブジェクト(音源と私)が形成され、相互作用する、というわけです。

言い換えれば、経験は「音源オブジェクト」と「私オブジェクト」が具体的に分離される前の、より抽象的なレベルで存在していると解釈できます。
これは、経験が具体的なオブジェクト間の相互作用よりも先立って、より包括的で統合された形で存在していることを示唆しています。音楽を聴くという経験は、単なる音の伝達という物理的プロセスではなく、主体と客体が一体となった、分離することのない統一的なプロセスの中で生じる、と西田は言いたいのです。

このChatGPT(ochyAI)とのやり取りの最後の回答部分を読み終えて、なんだかAIに「言いくるめられた」みたいな感じがして笑ってしまいました。

でも、よく読んでみれば、最近AIを学び、この世界のすべてが「相互作用」で物理的に生じている現象だということを考えてみれば、「私が経験している」と感じるものの、

経験はあたかも「基底クラス(基本クラス)」のようなものであり、音源と私という具体的なオブジェクトは、この経験という基底クラスから派生したインスタンスと考えることができます。

この説明のように「経験」したと感じられることが、「経験したと感じている私」を派生させた?  ということも言えるのかも・・・、と思ってしまった(笑)。

もう少し続けてみました。

You

#西田幾多郎の「純粋経験」において、私たちは経験する「主体」にすらなりえません。西田の考える経験とは、主体が現実から物質的な入力を受けて、主観や理論で解析し、解釈し、その意味を思考に定着させるといった体験ではないのです。西田は西洋哲学をはじめとする先人からはその思考法のみを学び、思索の中身からはなるべく影響を受けないようにしていたといわれます。#
西田は、この文章のように「私たちは経験する「主体」にすらなりえない」と考えています。西田の考える「経験」を、もう一度「オブジェクト指向」で解説してください。


ochyaiNote

西田幾多郎の「純粋経験」に関する考え方を、オブジェクト指向の概念で再考することは、その思想を現代の技術的な言語で理解し直すことに他なりません。西田が言う「経験」は、通常、主体が客体からの情報を受け取り、それを解析・解釈する過程とは異なります。オブジェクト指向の視点からこれを解釈する場合、経験を一種の「プロトタイプ(原型)」と考えることができるかもしれません。

オブジェクト指向とは
オブジェクト指向プログラミングでは、世界は相互作用するオブジェクトの集合として表現されます。各オブジェクトは、データ(属性)と、そのデータに作用する手続き(メソッド)を持っています。オブジェクト間の関係性は、継承や組み合わせ、インターフェースなどによって表現されます。

純粋経験とオブジェクト指向
西田が言及する「純粋経験」は、オブジェクト指向の文脈で言えば、まだ分化されていない、原初的な状態のオブジェクトのようなものです。

この経験においては、主体と客体という区分けが存在せず、それらは未分化の一つのものとして存在します。この状態では、オブジェクト間の相互作用(メッセージパッシング)は存在せず、経験そのものが一つの連続体として存在しています。

オブジェクト指向の観点から「純粋経験」を考える場合、これを「プロトタイプ」と考えることができます。プロトタイプとは、オブジェクトの基本形であり、具体的なオブジェクト(主体オブジェクト、客体オブジェクト)は、このプロトタイプから派生するインスタンスとして理解できます。しかし、西田の純粋経験では、このプロトタイプ自体が、いかなる属性やメソッドも持たない、完全に未分化の状態であると考えられます。

このように、「純粋経験」をオブジェクト指向の言葉で説明すると、主体と客体が区別される前の、より基本的な存在の状態、すなわちすべてのオブジェクトが派生する前の原型としての「経験」を指すことになります。この経験は、具体的なデータやメソッドを持たない「オブジェクト」であり、それによって、通常の意味での相互作用は起こり得ません。したがって、西田が述べるように、この状態での私たちは「経験する主体」にさえなり得ないのです。この考え方は、主体と客体、内部と外部の分離が存在しない、より統合的で全体的な世界観を提示しています。

面白いですね。
私にはこのAIの解説が、「西田幾多郎が言っていることなのでは」と思わされました。

プログラミングの「オブジェクト指向」を熟知していている人が、このAIの解説を読んだら、どのように感じるのでしょうか。
是非聞いてみたいです。

※プロンプト中の西田幾多郎の引用は、以下の本の中で伊藤穣一氏が解説していたものを引用しました。


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