幼少期
この記事は『なぜ自衛隊を辞めたんですか?』という質問に対する答えに繋げる為のnoteです。(意味わからない方は一つ前の記事をご覧ください)
1986.7.28に生まれました。時間まではわかりません。
時期的にはちょうど世間がバブルぐらいの頃ですね。
詳しくはわからないですが、母親が、僕が中学生ぐらいの頃ソファの隣に座っている僕にすら聞こえるか聞こえないかわからないぐらいの声で『世間はバブルやったけど、私らの体感は何も感じなかった。』みたいな事を言ってたので決して裕福な状態ではなかったかと思います。
少し話はズレますが、母親が聞こえるか聞こえないかぐらいの声でボソッと何かを言っていた記憶がちょこちょこありまして、それが僕の中に鮮明に残ってるものが何個かあります。その中の一つがこれです。この後も文章の中にもしかしたら出てくるかも。
話は戻りまして、僕が生まれる前は両親と姉と3人で尼崎に住んでいたようですが、僕が生まれた頃に川西市多田の団地に住み始めました。
帝王切開だったようです。しかもその最中に母親の麻酔が切れたようで、激痛に耐え僕を産んでくれました。そのせいもあり母親はもう妊娠できる体ではなくなりました。友達の妹や弟を見て『僕も欲しい!』と言ったときにそう教えられました。生々しいと言うか、壮絶な事が子供ながらにわかったのでその後は言わなかったと思います。
人生において一発目の命の危機が1歳の頃にあったようで、僕が寝ているとき母親が何かの用事で少し外出したみたいなんですね。田舎ですし、そんなに物騒な世の中ではなかったので扉をあけて風通しの良い状態で出たみたいなんです。
すると用事を終えて帰宅したら寝ていたはずの僕が居なくなっていたと。ゲキ焦りした母はご近所さんに連絡し、何人かで探しまくったそうです。
何時間か探した挙句、団地から300mぐらいのところにある銀行の前で、銀行員のおばちゃんが僕を抱っこしてくれてるのを見つけたみたいです。
どうやら僕は目覚めて、車がバンバン通る道路を300mハイハイしてる所を銀行のおばちゃんに見つけてもらって助けてもらえたようです。
生きててよかったです。
もちろん自力での記憶ではございませんし、その先で最初の記憶としてなんとなくあるのは団地のおかん同士が話してる流れで決まったスイミングスクールが泣くほど嫌だったことかなぁ。3歳ぐらいから通ったかと思います。幼稚園より早かったので。とにかく嫌で、壁に描いてある像が怖い、次の週は、象は怖くないけどその隣のキリンが怖い、とかなんかそんな事を言って泣いたのを覚えています。でもそんな気持ちとは裏腹に、水泳の才能がドンドン目覚めていきます。
水泳は小5ぐらいまで通ったかな?その話はまた追々。
その次の記憶は幼稚園ですね。
スクールバスで通ってました。『私立めぐみ幼稚園』というところだったと思います。両親が共働きだったので、『送り迎えしてくれるところということで私立にした、けど費用を考えたら私が働いてる分でほぼ相殺だ』と母がまたボソッと言うてました。
幼稚園では、まぁモテましたねぇ。好きな子の隣に座って良いよ!と言う先生の合図で僕の隣は即座にいつも埋まっていました。けど僕が好きだったのは先生です。担任の毎日怒られて泣いてる先生が好きでした。でも途中からその怒ってる先生が好きになってました。どんな癖なんでしょう。
お昼寝の時間にいつも寝るのが遅かったようで。おじいちゃんたちが孫に『○○くん!』と名前を呼ぶと『はい!』と答えて『賢いなぁー!』って言うノリあるじゃないですか?名前呼ばれたら大きな声で返事したら大人たちが喜んでくれると思っていたので、お昼寝の時間寝てるか確認するために僕の名前を読んだ先生に『はい!』と元気よく返事してたら『今日もまだ寝てないんかい・・・笑』みたいな感じで言われてなんかどきっとしたのを覚えています。変な空気になってました。
母親の実家が能勢、父親の実家が徳島のスーパー山奥なので、よく能勢には帰ってましたが徳島には行けて一年に一回ぐらいだったかなぁ。
能勢には姉と二人でよく帰ってましたね。
電車を乗ってバスを乗り継いで帰るんですが、どうしても僕は『次降ります』のボタンが押したくて。でも降りないところで押したら怒られるので最寄りの駅がコールされたら即座に押してたんです。でもある日、僕の座った席からボタンが子供には少し遠く、コールされてすぐには押せなかったんですね。でも押したいから頑張って手を伸ばしていたところ、僕の席の前に座っている大福を頬張ってるおばさんに先に押されてしまったんです。もちろんギャン泣きしました。姉は僕を全力であやしながらそのおばさんを睨んでくれていました。でもそんなこと私には関係ないと言わんばかりにそのおばさんは二つ目の大福を頬張り、手についた粉をパンパンと払っていました。その時から僕は大福を頬張るおばさんが大の苦手です。
姉ちゃんとは本当に仲が良かったです。
と言うより、仲良くしてくれてましたね。5歳離れてるというのもあったでしょうけど、とにかく僕が『みきちゃんみきちゃん』と甘えていたのでよく友達との約束を断って僕と遊んでくれていたみたいです。ちなみにですが『お姉ちゃん』と呼んだことがなく、名前でばかり呼んでいまして、でも流石に思春期を迎えた頃に『みきちゃん』とは呼ぶの恥ずかしくなって結果今でもなんと呼んで良いかわからない状態です。
徳島の父親の実家の隣に『子安』という名前の山がありました。元々はそこの山に家があったんや!と言っていたので親戚と家族で元実家を見に行こう!と山に登りました。途中お腹が痛くなりお地蔵さんの前でウ○チをしました。なんやこれ!黄色っ!!とみんなにいじられてキャッキャ言うて楽しく山を登り、ついに元実家にたどり着きました。ずいぶん高いところまで来たなぁと下を覗き込んだところ軽い崖から転がり落ちました。すぐ下に段差があったのでそこまでの怪我はしませんでしたが、前髪の生え際を4針縫いました。今でも傷跡は残っています。お地蔵さんの前で野グ○をしたバチが当たったんだと怒られました。あんなにみんなで笑っていたのに・・・でもお母さんが一番怒っていたのは親父に対してでした。と言うのも、僕が落ちたとき助けてくれたのはおじさんだったからです。親父はびっくりして一歩も動けなかったみたいです。かわいい親父です。
小学校入るまでの記憶はこんなもんですかね、ってか・・・・・え?!この程度でこんなに文字数いくの?!これ最後まで読んでくれてる人いる?!笑
まだまだ書くことあるんやど、今回は一旦ここで終わります。
読んでくれてありがとうございます