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ハワイタイムマシーンZ/太平洋のど真ん中で 24.マウイ島ラハイナには世界の船がやってきていました

当時、ハワイ王国の首都はラハイナでした

当時のハワイを少しでもイメージしていただけたらと思って、今回はラハイナの話から始めさせていただきます。

マウイ島西の海岸線にあるラハイナは、とてもキレイな海沿いの町です。わたくしが初めて訪れたのは2000年。ハワイの歴史なんて何も知らない頃でした。とにかくハワイ全島を周ってみなくちゃ、という気持ちだけで宿泊先を探し、ラハイナの中心地からちょっと歩いたところにある、ラハイナショアーズに泊まりました。

マウイ島にはリゾート地がいろいろあります。カアナパリ、カパルア、ワイレア、キヘイ、ハナ、パイア…。なのに、どうしてラハイナへ行ったのか、というと、ガイドブックで旧都と紹介してあったから。かつてはハワイ王国の首都だった町なのです。日本でいう京都みたいな存在ですね。

行ってびっくり。歴史を感じる町の雰囲気を守るため、ラハイナには宿泊施設が数件しかありません。新しい建物がなく、飲食店とお土産物屋さんが並んでいるばかりで本当に京都みたいです。小さな港の前に裁判所跡があったりしましたが、わたくしは英語がダメです。行ったはいいけど何も理解できませんでした。ちなみに、日本人比率はかなり低いです。日本語でなんとかなるお店もかなり少ない。そういう意味では、ワイキキよりも異国な感じがします。

町の中心地に港があります。そこに並んでいるのは小さな船ばかり。一番大きいのが、上の写真に写っているラナイ島へ向かうフェリーです。片道約45分で、ラナイ島南にあるマネレ・スモール・ボート・ハーバーへ到着します。あ、わたくしは乗ったことありません。

ラハイナはステキな町ですが、あっという間に一周できてしまいます。何も知らないと、この町の雰囲気が好きかどうかで終わってしまいます。わたくしも最初は、ああそうか、ぐらいで終わってしまっていました。

その後、歴史を知ってから、何度も訪れるようになりました。1802年からカメハメハ1世が住み始めたことを知ったのも2009年になってからです。

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ラハイナ公共図書館前の広場に、カメハメハ1世が住んでいた家の跡があります。ごちゃごちゃと古い建物が並んでいるラハイナの中で、ここだけがキレイでスカッとしていて、何かを感じる方もいらっしゃるようです。そして、近くの海岸線に、マウイ島のバースストーンがあります。オアフ島のバースストーンとは全然違いますが、これまたなんか感じるものがあります。

前回、カメハメハ3世が22歳の頃の話を書かせていただきました。当時のラハイナは捕鯨船の寄港地として賑わっていました。最盛期には年間約400艘もの捕鯨船がやってきていたそうです。

が、わたくしが調べた限りでは、ハワイは寄港料金で儲けていたのではなく、捕鯨船へ積み込む物品、船員の食糧を供給するという商売だけで年間数十万ドルを稼いでいたそうです。19世紀で数十万ドルといったら、とんでもなくすんごい金額です。

1839年にフランス王国が送り込んできた軍艦の話をもう一度

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第21話で、少し書かせていただきましたが、当時のハワイ王国に入り込んでいたのは、アメリカの宣教師たちでした。キリスト教プロテスタントです。

大晦日にお寺へ行き、初詣で神社へ行く日本人には理解しにくいことですが、同じキリスト教でも、プロテスタントとカトリックは互いを否定してし合っていました。なので、ハワイ王国に取り入っていたプロテスタントの宣教師たちにとって、カトリックの宣教師は敵でしかありませんでした。

宣教師たちは、カメハメハ3世が更生すると(つまりその、妹とラブラブじゃなくなると)、早速動かしています。カメハメハ3世に、カトリック拒絶令みたいなものを発行させたのです。カトリックは悪者のように扱われ、捕まえられると牢屋に放り込まれてしまいました。

これも第21話で書きましたが、もう一度。

フランス王国はこれを知り激しく怒り、1839年にフリゲート艦アルテミス号を送り込んできました。当時のフランス王国は、イギリスには敵いませんが、世界中に植民地を持つ大国やったのです。フランスの宣教師たちが牢屋に放り込まれてると聞いて、黙っているわけには行かなかったのでしょう。

フランス王国がハワイ王国に要望したのは以下の5つ。

1.カトリックの信仰の自由
2.カトリック信仰を宣言したため投獄されていたカトリック信者たちの釈放
3.政府がカトリック教会を建てる土地を提供すること
4.ハワイ王国が将来、良い行ないをするしるしとして、2万ドル以上をフランスに引き渡すこと
5.フリゲート艦アルテミス号を歓迎する意味で、21発の祝砲を撃つこと

4と5は意味が分かりません。これは、ハワイ王国初めての不平等条約でした。カメハメハ3世が26歳のことです。めっちゃ悔しかったと思います。

ところで、アルテミス号ってどんな船やったんやろう?気になったので調べてみましたが、なかなか見つかりませんでした。同じ名前の船を見つけたのですっが、その船がこの時のアルテミス号なのかどうかは分かりません。ちなみに、わたくしが見つけたアルテミス号は、同じ年に、タヒチで遭難しています。ハワイ王国を天国で守っているカメハメハ1世の仕返しやったりして。

カメハメハ3世はハワイ王国の未来のために学校を造ります

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このフランス王国とのやり取りで、カメハメハ3世はかなり焦ったようです。将来、ハワイ王国を担う子たちに、欧米諸国とやり会えるくらいの力を付けなければ!

そして、現在イオラニ宮殿があるあたりの近くに、チーフ・チルドレン・スクールを造ります。後にロイヤルスクールという名前になる学校です。何も知らないと、お坊ちゃん&お嬢さん学校かな?と思ってしまいそうですが、違ったみたいです。ハワイ王国を担う人間は、外国のことを理解しておかねばならない。カメハメハ3世からの指示を受け、宣教師が教師になって諸外国の文化や政治について教育が始まりました。

カメハメハ3世の後の王、

・カメハメハ4世
・カメハメハ5世
・ルナリロ
・カラカウア
・リリウオカラニ

全てこの学校の卒業生です。

学校を造っただけではありません。1840年、カメハメハ3世はハワイ王国初の憲法を発布しています。ハワイ王国をつくったのはカメハメハ1世ですが、立憲君主制国家にしたのはカメハメハ3世なのです。

この時、1840年のカメハメハ3世はまだ25歳です。なかなかすごいと思います。

1840年といえば、アヘン戦争です

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カメハメハ3世は、世界のことを知れば知るほど焦ったと思います。この頃、太平洋を囲む国々は、ヨーロッパ諸国の植民地になっていました。そんな中、アジアの大国、は、眠れる獅子とか言われて一眼置かれる存在でした。ふんぞりかえって、いろんな国と交易していました。

イギリスは清から、お茶、絹、陶磁器などを輸入していました。清がイギリスから買うものといえば、時計や望遠鏡など、清の庶民にとっては無縁のものばかり。イギリスは、この輸出入のバランスを取るために、清にアヘンを売り込み始めます。信じられません。アヘンとは麻薬です。しかも、アヘンは、当時イギリスの植民地やったインドで造っていました。異国で麻薬を作り、異国に売り込み始めたのです。

そんなことされたら、清も黙っていません。アヘン貿易を禁止、アヘンを見つけたら没収して海に流したりしていました。まあ、当然です。

今からは考えられませんが、当時のイギリスはめちゃくちゃでした。それに怒って暴れ始め、戦争が始まりました。

First Opium War/アヘン戦争 1840年~1842年

悪い冗談みたいな話ですが、清はボロ負けし、香港がイギリス領土になります。これは日本にも衝撃を与え、明治維新へと繋がっていくことになります。

カメハメハ3世もこの頃からいろいろ動き始めています。アヘン戦争は衝撃やったんでしょうね。


。。。。つづく


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