容姿を気にせず生きている自分の話

私は、自分の容姿に頓着が無い。無い、というか、努めて頓着しないようにしている。

理由は、ひとことで言うと「がっかりするから」だ。
がっかりという感情は、期待外れから起こるものなので、期待をしないことにした。服を選ぶ・髪型を変える・メイクをする。私が容姿に気を配ると、かなりの割合で期待外れが起こる。
期待と言ったって、美しいとか可愛いとか、そういうものを期待しているのではない。そんなものはそもそも最初から期待していなくて、私が期待しがちなのは「イメージどおり」というものだった。つまり「似合ってほしい」ということである。

こういう髪型にしたらこういう印象になるかな、この服を着ればこう仕上がるかな、などと頭の中で思い描いても、いざ実際にその髪型や服装にしてみたら、頭の中にあった印象に近づかない。イメージとかけ離れた自分の姿に、がっかりするのだ。
いちばん衝撃的だった思い出の1つが成人式で、着付けとヘアメイクが終わって鏡に映った自分を見て、真っ先に頭に浮かんだ、とてもしっくりきてしまった表現が「七五三」だった。もっと年相応に大人びた自分に出会えると思っていたので、ひどく印象に残っている。こういうことが日常の中でもとてもよく起こった。

自分の容姿がイメージどおりに仕上がらない。その理由として、雑誌などに載っているイメージ写真のモデルが自分とは全然違う人だというのがある。見本にしようとして参照しているのに、実際自分がそれをしてみると全然違っていることが多く、見本にならない。本来ならそこからもう一歩踏み込んで、自分に置き換えるとどうなるかということを考えないとゴールにはたどりつけないのだろう。
しかし私は、研究してイメージと実際の自分をすり合わせる努力を、一切放棄した。そんなの頑張るくらいならイメージを所有しない方がコスパ良く気楽に過ごしていける。そういう判断に至った。

そこまでには、たくさんの失敗が積み重なっている。容姿に手を加える(髪型を変える・服装を決める)時に、人から微妙なリアクションをされても自分が気に入っていればまだ良いのだが、自分でも「イメージと違う」と思っているので気持ちのよりどころが無い。この反省を活かして今は、自分に合うかどうかではなく好きな色や形かどうか、悪目立ちしないかどうかなどの判断基準を採用している。
しかし、望むイメージを所有していないと、「希望を聞かせて」と言われたときに困る。髪を5cm切ってほしいとか、整えてほしいとか、そういう希望は出せるのだけど、それ以上何も無いので、美容院で「どういうふうにしますか?」と聞かれるのが苦手だ。だいたいの場合は、上記以上の希望を聞かれるので、早く正解を見つけたいと思っている。

そしてもう1つ苦手なことがあって、それは「変化がわからない」という感想をもらうことである。髪を切る・服を買う・メイクをする、それは 容姿をより良くしようと思ってやっているのに、「何か変わった?」と言われると、かけたコストが丸ごと無駄になったように感じる。なのでその価値基準も使うのをやめた。メイクはしない。髪は日常生活が快適になることを基準に切る。服は消耗品として扱い、気に入っていたものが破れたりして着られなくなったら、出来るだけ近いものを買う。こうすると「変わってないじゃん」という反応に対しても「そうだよ、変えてないから!」と肯定的な気持ちでいることができるし、快適に過ごすことができる。

以上のように、私は自分の容姿に対して「こうありたい」というイメージを放棄しており、かつ実際の自分の容姿がどのような感じなのかも、できるだけ気にかけずに生きている。

普段はそれで快適なのだけれど、美容院のようにたまに戸惑うことがある。戸惑いの例としてもう1つ挙げたいのが、記念撮影だ。

これに関しては、次の記事に続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?