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娘のための世界史2 東アジア史1

東アジア史

【中華という美称】

 一般には「中国史」と呼ばれる分野ですが、「東アジア史」としたことについて前置きをしておきます。

 1911年の辛亥革命の翌年、「中華民国」が発足しました。しかし、わが国外務省は当初、これを「支那共和国」と翻訳しました。なぜかというと、「中華」という美称にはもれなく「東夷」「西戎」「北狄」「南蛮」という蔑称がセットになってくるからです。「東夷」とさげすまれてきたわが国にとって、「中華」は肯んじがたい呼称でした。支那とは、最初の統一王朝である「秦」が転訛したもので、王朝の変遷にかかわらず通史的に用いられる地名です。そこで英訳名の「リパブリック・オブ・チャイナ」を再度邦訳したわけですが、最終的には先方の要請をしぶしぶ受け入れることになりました。

 ところで、この「東夷」「西戎」「北狄」「南蛮」が中国の歴史の発祥にかかわってくるのです。また、のちには征服王朝といって、これらの四夷(異民族)が皇帝を輩出する場面も出てくるのです。


【黄河のたまもの】

 中国の歴史は四大河文明とされる黄河文明を受け継いだものです。その主な舞台は、黄河がオルドスループと言われる大屈曲を終え、渭水と合流して東流を始める付近を中心とした東西500キロです。ここには、秦の都咸陽をはじめ、前漢や隋唐の都長安、後漢の都洛陽、北宋の都開封などが並んでいます。いわゆる中原と呼ばれる地域です。

中国河川2と中原

 黄河は、この中原より上流の「几」字の形の部分は断崖絶壁で渡河できません。また、開封より下流になると常に流路を変える(河道変遷)暴れ川となってしまいます。現在の黄河は、山東半島の北側から渤海湾に注いでいますが、つい150年前までは半島の南から黄海に注いでいたのでした。

 つまり、東西南北からやってきた商人たちが黄河を挟んで交易できるのは、ここ中原しかなかったのです。こうして、この地で歴史が積まれてゆきます。最古の実在王朝とされる「殷」は、紀元前11世紀より古いのですが、別称を「商」と言います。それで「商」の字にビジネスの意味が生まれたのです。

 そして、さまざまな言葉を話す四夷たちがコミュニケーションを図るために用いたのが漢字のもととなる文字でした。カメの甲羅やウシやシカの骨に刻まれたため甲骨文字と呼んでいます。


【易姓革命】

 中国の王朝交代は「易姓革命」と言われます。天子(支配者)に徳がなくなったと天帝(神様)が判断すれば、革命が起こるという考えです。その際、支配者一族が変わる、つまり姓が易わるのです。酒池肉林で悪名の高い殷の紂王は、周の武王に滅ぼされて史上初の易姓革命となりました。

 前8世紀からの、周の治下、といっても勢力が衰えて乱れに乱れた世を春秋戦国時代と言います。「孔孟老荘」ら諸子百家が活躍したのもこの時代です。合従連衡しての戦争を繰り返し、中原周辺に200余りもあった諸侯はやがて有力な7国ほどに収れんしていきます。


【全土を統一した秦の始皇帝】

 そして前3世紀後半、諸侯のうちで最も西に位置する秦が相次いで他国を打ち破り黄河周辺の統一を遂げました。秦王政は「皇帝」号を創作し、自らは「始皇帝」と名乗りました。文字通りファースト・エンペラーですね。ちなみに、ラスト・エンペラーはベルナルド・ベルトルッチ監督の同名の映画にもなった清朝の宣統帝(愛新覚羅 溥儀)です。


 統一秦は、さらに南方へも遠征し、長江(揚子江)周辺から今の福建省、広東省、ベトナム北部まで版図を広げました。

 この版図は、のちの清朝崩壊時の版図から、満洲、モンゴル、新彊、チベットを除いたいわゆる中国本土/中国本部(チャイナ・プロパー)と言われる領域にほぼ匹敵します。秦イコール支那ですから、このくらいの範囲が漢民族固有の土地かもしれません。

 統一したのは国土ばかりではありません。郡県制による中央集権化の下、度量衡や通貨、車軌、文字などの規格も揃えました。

【漢民族とは】

 では、漢民族とはなんでしょうか。

 秦の後を襲った王朝が、項羽と劉邦でおなじみの「漢」です。紀元を挟んで前後にそれぞれ約200年続いた王朝です。なお、王朝名はほとんどが出身地の地名です。漢は、長安の都の南西の陝西省南部、現在は漢中市となっている辺りです。この王朝名をとって民族名となっているわけです。

 漢は一時、西域(中央アジア)やベトナム、遼東、朝鮮半島へも支配を広げる大帝国となります。中国の最初の正史である『史記』を司馬遷が編纂したのも、この王朝でのことです。つまり、”中国的システム”を整え始めた王朝と言ってもいいでしょう。

 しかし、漢も、滅亡直前の2世紀後半になると、統治不全に陥ります。大干ばつによる飢饉も重なり、餓死者は猖獗を極め、そのため黄巾の乱など農民の宗教結社の武装蜂起が各地に広がります。当然、治安も秩序も社会発展も崩壊。史書によると、最盛期には6000万人を抱えた中原地域の人口は、一気に500万人程度にまで大激減してしまいます。500万人は現代日本では北海道の人口に相当します。一方、中原は日本列島全体よりよっぽど広いわけですから(1.5倍ぐらいと考えていい)、もう、人気もまばらな無人の地と化したと言っていいでしょう。これをもって漢民族は一旦滅亡したとする見方さえあります。


【三国志の時代】

 漢が滅亡して、今や漫画やゲームで人気の、魏呉蜀の三国時代を迎えるわけですが、その時代は、先の真空地帯に吸い込まれるようにして、匈奴や鮮卑、烏桓などの北方遊牧騎馬民族が南下してきます。混血も進み、ここで血縁系統は入れ替わってしまったと考えられます。ただし中国の場合、血縁や出自などの民族部族性よりも、史記など正史に代表される”中国システム”に組み込まれることで「漢民族」になると考えたほうがいいのかもしれませんね。現代の人民共和国では同じような考えで「中華民族」などという言い方をして、少数民族や被支配民族から物議を醸されていますけれどね。

 閑話休題。歴史に戻ると、三国が西晋によっていったん統一された後も、北方民族の建国も含めて諸王朝が林立分裂した五胡十六国、南北朝時代を経て、それを300年ぶりに統一したのが「隋」です。この皇帝一族も、次の「唐」も鮮卑系だとされていますが、もはや”漢民族”の王朝の扱いです。


【征服王朝】


 それでも実は中原地方は、このあとも、ほぼ一貫して非漢民族王朝の支配下に置かれ続けることになるんです。

 10世紀に漢民族の「宋」が建国され、中原の開封を首都としますが、すぐ北側は、今の北京辺りを含めてモンゴル系「遼」に圧迫されます。その後、女真人(満州族)の「金」が中原を支配、宋は南へ逃げて都を今の浙江省杭州市に移します。そしてチンギス・ハーンの孫フビライが興した「元」は言わずもがなのモンゴル系。さらに、ほぼ北京を首都とした漢民族の「明」を挟んで、満州族の「清」と続くのですから。


 ちなみに、先にも出しました清の国姓「愛新覚羅」の「アイシン」は、満洲語で「金」を意味します。清朝の皇族が、この金王朝に表敬して名乗った姓なのです。

 


【朱子学と中華思想】

 南へ逃げた宋は、

(この続きは、また。ヨーロッパのほうも続きを書かなきゃ。ふう)


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