贈り物赤道国より来たるあり
「贈り物赤道国より来たるあり」
フジモリ大統領が輩出した隣国ペルーは、1899年に初めて日本人が契約労働者として集団移民して以来の有力な移民先で、現在も十万人余の日系人口を数える。しかし、ここエクアドルは国策で長く移民を制限してきたため戦前からの日系人がいない。戦後、わずかな移住者があっただけだ。口絵のエクアドルバナナの田辺農園のあるじ田辺正裕さんはその一人である。
上司に「おーい」と呼ばれて赴くと、
「エ、エクアドルに行ってくれ」といつものとぼけた声で言われた。
「はあ」
「バ、バナナの取材だ」
「はあ」
「せ、先方は、英語かス、スペイン語ができる人を望んでいる」
「はあ」
「お、おまいさん、両方できんだろ」
「両方とも、中途半端ですよ」
「べ、別にいいんだよ」
主人公は大学1年時、他学部のスペイン語授業を自由科目として履修した。入学直後はまだ向上心があったのだ。最初は10人ほどが出席していたが、土曜の1限という、ふまじめな学生には不都合な時間帯のせいか、夏休みが終わって後期の最初の授業に出ると、教室に学生は主人公1人しかいなかった。
「しめしめ、これは個人授業になるなあ」とも期待したが、教員はさも多人数の学生がいるかのごとく教壇の高いところから普通に授業を進めた。
「〇〇さん」
「…」
「××さん」
「…」
「□□さん(主人公の名前)」
「はい」
「△△さん」
「…」
教員はなんと全員の出席さえとったのである。さすがに次週からはやめたが。授業も、一対一だからといって脱線することもなかった。淡々と教科書に沿って進められていく。
そうして何週か経ても、ついに学生は主人公しか来なかった。
こうなると授業をサボれない。主人公が欠席すれば即休講である。休講の差配権を教員ではなく学生が握っているのである。教員が内心どう考えているか、中村敦夫に似た顔の、能面の表情からはうかがい知ることはできなかったが、主人公は毎土曜日の朝、あくびを噛み殺しながら身柄だけは教室に運んだ。後期の試験は自己判定で30%ぐらいできたかどうかだった。評価は「B」だった。いいのか。
それからスペイン語には長いこと縁がなかった。そりゃあ解放感でしょう。で、10年ほど経った頃、地元の区立図書館にあったスペイン語の語学本をなにげなく手に取ると、ページの間からなにやらメモ用紙がはらりと落ちた。
「スペイン語、教えます。マリア。チリ出身。電話03-××××ー××××」
隣町の電話番号じゃん。これはなにかの天啓だと、さっそく電話をした。翌週から毎週1回、マリアさんの自宅--それは漁業会社の社宅だった。マリアさんの夫は大手漁業会社勤めで、チリに駐在していた時に知り合って結婚、帰任に合わせて来日したそうだ--でスペイン語を習うことになる。
「ブエナノーチェ、アデランテ、アデラーンテ」
マリアさん家の呼び鈴を押すと、扉が開いて、いつも明るい声で迎えてくれた。教室は、社宅の居間のちゃぶ台と座布団であった。
1年ぐらい続けた頃、マリアさん一家が分譲マンションを買って隣町から引っ越していったので勉強は終わった。
マリアさんは料理教室の先生もやっていた。一度、主人公の自宅に仲間を集めてチリ料理パーティーを開いたことがある。ところがマリアさん、まな板を使わずシンクの人工大理石の上で食材を切り刻み始めた。
「あ、あ、あーッ、そこじゃダメダメッ! あーあ」
妻の悲鳴である。
そのときの傷は今でも残っている。妻は後で「ひどいわ」と怒っていた。今では傷跡を見てもマリアさんを思い出すことは少なくなったが、おかげで主人公のスペイン語はちょっとは上達したらしく、翌年に起きたペルー大使館占拠事件のときは、電話である程度の取材ができていたようだ。
こうして主人公は、営業がらみ(広告記事)の取材で、エクアドルの田辺農園を訪ねることになったわけである。1999年のことだ。
案内役をするのは、正裕さんの弟洋樹さんだ。エクアドルで生まれ、アメリカの大学を出て、本格的にサッカーをしていたので、名古屋グランパスのセレクションを受けようとした矢先にけがで断念したそうだ。ポジションはフォワードだという。
主人公もフットボーラーだったから、
「ロマーリオとかベベットとか、そんなタイプの選手だったんじゃないの」と尋ねてみた。
フォワードとしては大柄な体格ではなかったし、南米出身ということで、重心が低くて、ポジショニングと瞬発力と駆け引きにすぐれたプレースタイルを主人公は勝手にイメージした。
返事は忘れた。ただ、「日本のサッカーって無駄に走りすぎじゃないか」というようなことを言っていた覚えがある。ふふーん、隣国コロンビアのバルデラマはまだ現役だった。「ボールを走らせろ、ボールは疲れない」と言ったのはオランダのクライフだったが。
関係ないが、さっき、われらがアイドル、ディエゴ・マラドーナの訃報が飛び込んできた。彼の左足は--左手も--永遠に語り継がれることだろう。合掌。
さて、田辺家は広島がルーツである。戦前はフィリピン・ミンダナオ島ダバオでアバカを栽培していた。軽くて強靭な繊維を持つアバカは、ナイロンが安価に普及する以前は船のロープや漁網などの材料として重宝されていた。マニラ麻の名の方が通りがいいかもしれないが、麻ではなく芭蕉の仲間である。
敗戦で、兄弟の父正明さんは日本へ引き揚げを余儀なくされた後、広島で郵便関係の仕事に就いたが、外地育ちにはどうしても狭い日本がなじまない。ブラジル移住の募集が再開されて応募しようかとも考えたが、内地しか知らない妻は首を縦に振らない。
そこへ、ダバオ時代のアバカ同業であったプランテーション会社「古川拓殖」から、エクアドルでアバカ作りを始めたから手伝わないかという話が舞い込んだ。一も二もなく単身1万5000キロを渡った。3年ほどで目途をつけ、67年に家族ぐるみで移住し、独立してアバカ農園の経営を始めた。そして、跡を継いだ正裕さんは91年から、同じバショウ科であるバナナ農園も始めたという次第。
洋樹さんは当時、エクアドルバナナを日本に輸入する貿易会社で働いていた。日本の取引先に農場見学してもらい、せっかくだからと、ガラパゴス諸島にも案内する。だから、あの秘境に何度となく足を運んでいる人でもあった。
田辺農園は今年(2020年)現在、ANAフーズと独占輸入販売の契約を結んでいるようだ。自然農法と環境保全にこだわりを持った栽培をしており、主人公の出張もそのPRだった。現在ではANAフーズのホームページなどにも詳しいので、ここでは割愛する。そちらを見ていただきたい。
農場見学を終えた主人公は、洋樹さんとB727に乗り込んだ。大陸とガラパゴスの1000キロの空路を結ぶ懐かしのT字尾翼の3発機は、諸島のほぼ真ん中に位置する丸いサンタクルス島の北側にへばりついたバルトラ島の飛行場に舞い降りた。
バルトラ島は、ガラパゴス観光の拠点で、ここからアーキペラーゴを周遊する観光船なども出ているが、主人公はフェリーでサンタクルス島に渡った。着いたのは「ホテル・ガラパゴス」だった。
このホテルは、ロンサム・ジョージ(没2012年)で知られたチャールズ・ダーウィン研究所(ECCD)の建設が始まった1960年代初頭に、アメリカから来たフォレスト・ネルソンというヨット乗りが創業した。フォレストは研究所の建設主任として雇われ、給料の大半をセメント袋で受け取り、それでホテルを自作した。
サンタクルス島の中心部であるプエルトアヨラには現在約1万人が住んでいるが、当時はたった50人程度だった。フォレストはメリーランド州出身で、学校を飛び出して独学でエンジニアとなり冒険の道を志した。36フィートのヨットでカリフォルニアを目指す途中の1951年に初めてガラパゴスに立ち寄ったという。おそらくパナマ運河を通過したのだろう。世代からしてビート族の影響を受けていたかもしれない。
今は息子ジャックの経営だが、2020年11月現在、改装中で営業を休んでいる。まあ、コロナで来る人もいないだろう。
当時のホテル・ガラパゴスは、母屋とバンガローで構成されていた。今はプールもあるらしい。
「水は海水を淡水化しているんだ。ちょっとしょっぱいかも」とジャックは言った。まあ、気にすることはなかった。カランから水を飲むことなどない。飲むのはもっぱらビールであった。銘柄は「CLUB」だったかな。王冠とともにリストにチェックすれば、母屋のキッチンの冷蔵庫から勝手に取り出して飲んでよかった。
来島初日、ECCDなどを見学してホテルで夕食を終えた後、主人公はビールを飲みながら訊いた。
「町にバルとかないの」
ガラパゴスは当時から日本では「野生のサンクチュアリ」として知られ、入島が厳しく制限されているだとか、島に上陸するときは靴を洗うだとか聞かされていたから、町に「生活」らしいものはないのかもしれないと主人公は想像していた。
「ないことはないけど…。行ってみる」洋樹さんは答えた。
プエルトアヨラのダウンタウンまで暗い道を歩いた。一軒のレストランが営業していた。ほかに客はいなかった、ように覚えている。
「コンバンワ」
片言の日本語で接客してきたのは東洋人の顔付きをした若い男だった。世界旅行中の韓国人で、「今はここでアルバイトをしているんだ」と言った。
たしか2階だった。階段を上がるとプールがあった。ポケットのあるビリヤード台だ。しばらくナインボールで遊んでいると、韓国人がお代わりのビールを持ってきた。
「君もやるの」
「まあね」
「じゃあ、ビールを賭けようか」
「いいよ」
最初のバンキングで彼のほうが主人公より数倍上手だということが分かった。実際、数分後には、韓国人のキューが弾いた白玉が、黄色と白のまだらの9番球をポケットに押し込んだ。コトンと音がした。主人公には一度も白玉を弾く機会はなかった。
翌日には、空港のあるバルトラ島の北にあるノース・シーモア島に野生観察に出かけた。
上空を舞っていたアオアシカツオドリたちは意を決するや、次々と海面に向かって猛速度で急降下、水泳競技の飛び込みのようにたいした水しぶきも上げず、水中に消えた。
「アオアシカツオドリはあんなに高いところから魚が見えるのかな」
見た感じ、高さはたっぷり50メートルはあるんじゃないかと思った。
「いや、まあ潜ってから探すんじゃないの」
「ああそう。水がきれいだから鳥目でも大丈夫なんだね」
「…。水面下20メートルぐらいまで突っ込むらしいよ」
「なるほど。バンカーバスターみたいなもんだ」
「…」
ガラパゴスの野生観察についても、多くの情報がネットにあるので、ここではこれ以上は割愛しよう。
さて、日本に帰国して1カ月ほどたったころだろうか。デスクの電話が鳴った。
「もしもー」
「あー、〇〇です」
「あー、その節はたいへんお世話になりました」
エクアドルバナナを日本に輸入する貿易会社の社長だった。つまり、洋樹さんの上司だ。
「1時間後にウチのバナナを積んだ用船が外貿埠頭に入るんですがね、たぶん死体が2つ出てきますよ」
外貿埠頭とは、お台場先にある外国貿易船のための波止場で、食品埠頭の岸壁わきには、保税と熟成のための倉庫がある。エクアドル・グアヤキル港でバナナを積んだ冷蔵貨物船は数日後、サンディエゴだかロサンゼルスだかでアメリカ向けのバナナを下す。そのまま太平洋を横断して日本に向かうが、2週間はかかるため、日本向けの荷室にはグアヤキルで積載後すぐ窒素ガスを充填して密閉し、バナナの熟成を抑制するという。
エクアドルからアメリカへの密航を企てた組織は、アメリカ行きと間違えて日本行きの荷室に”顧客”を忍び込ませたようだ。アメリカで顧客が下りてこないことから事態が発覚した。
「たぶん、窒素ガスの充填が始まった瞬間、即死ですよ。もう、警察も保安庁も税関も集まり始めているらしい」
主人公は若い記者を現場に向かわせた。
こうして「バナナの上に死体がごろり」の記事となった。
https://www.ana-foods.co.jp/products/tanabe_farm/
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