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自分自身に無難を強要される

 おっ、note君久々ですな。4ヶ月ぶりくらいか?いやー人間、三日坊主は避けたいとか考えて頑張っても三週間坊主とか三ヶ月坊主のパターンも往々にして有るよね。
 でもちょっと待てよと。なんで間を空けてんだということですよ。いや基本的に僕の怠惰が生んだ空白期間なのでその辺はもう言い訳しようがないくらい自明の理ですが、書きたくてもネタがねえとかやっぱ思っちゃうじゃん。特筆すべきことなど何もないのに何の文章を紡げと言うのですか。毎日会社と家の往復でメリもハリもない人生歩んでんのにこういうnoteとかで「〇〇したら〇〇になった話」みたいなのどう書けんのよ。というかみんな何書いてんのよ。
で、ちょっと周り見渡して観察してみれば仕事の話とか意気込みとか価値観とか、昔の話やスタンスの話、権利や法律、イベントにアドバイス。ありとあらゆる記事や感想が、絵や音楽が毎日毎秒生まれていることに気がつくだろう。そんな1億総表現者になっている現代において、なんで俺は己の心のことですら表現できず、すぐに飽きてしまい、なかったことにしてしまうのか。圧倒的他者に対してあまりにも貧弱な自分が見えてきて嫌になるよね。

 こういう「大多数の他社と比べて自分はなんて劣っているんだ」みたいな気持ちって、他者が優秀であればあることが前提で成り立つ自己批判なんだろうけども、大多数の他者って本当に存在するのかって話よ。
 そもそも話題になってるものの発信元が全て同一人物の訳がないじゃん? 貴方が「おもしろーい」とか「ためになるなあ」とか「待ってました!」みたいな情報すべてが1つのところから生み出されてるなんて、そんな訳はないよね? 結局は大多数の一発屋みたいなコンテンツに触れ続けてるはずなのに、己一人がまるで遅れを取っている、世の中において何も継続できない落ちこぼれだと思うこと自体間違っているということですよ。「みんなしゅごいなー」みたいな感情は本当に「みんな」を認識してますか?
 ありとあらゆる物事が飽和している現代において、貴方が触れているそれは誰かがポッと作った一発に過ぎなくて、真に凄い人、常に何かを続け、発信して、色んなものに取り上げられて、常に目立つ位置にいる人なんて本当はほんの一握りじゃないんですかね。貴方の目に入るものなんて一発屋の残像か、貴方が追っている貴方自身が目撃したがっているものでしかないんじゃないですかね。
 つまりは継続的に何かをして発信している人なんてほとんどいなくて、僕のnoteで少しくらい書くことがないなんて、きっとあまりにもありふれまくっている事なのでなんにも気にすることないのではないでしょうか。(壮大な言い訳)


 前置きが長くなりすぎたんですが、とりあえず最近思ってることでも書いて茶を濁そう。
 流石に自分もいい歳になってきて、学生時代にあったようなコミュニティの頻度というか、強度が薄れていっているのがまあ嫌でもわかるというか、自身で自身の生活を送るにおいて、どうしても対人関係でリソースを薄めて行かなくてはならない部分があるんだっていうことは鈍い僕でも気づいてるわけです。そりゃ会えば馬鹿なこと言ってゲラゲラ笑えるし、夜遅くまで酒を飲んだりもできるけども、そもそもの密度が薄くなっているので、昔ほどの目まぐるしい日々はなくなっているわけです。
 あの頃まるでカリスマに満ち溢れて憧れたあいつも結局はどこか小さな社会で細々と生きてるし、ずっと友達でいたかったアイツも今じゃどこでどんなことやってるかよくわからん。ムカつくし態度がいけ好かねえなと感じていたアイツは聞けば事業で成功して金には困ってないらしい。そんな「らしい」で塗り固められてしまっているほどに、あの頃強固だったコミュニティも今じゃそんなもんってことだ。

 ただ、こういう薄れていったから見えるものもあって、僕という人間性が集団においてやたらと「まともな人間」という位置に固執していたのだ(きっと今でもそうなんだけども)。
 所属しているコミュニティが減っているからこそかつての思い出に浸ることもできるんだが、浸れば浸るほど自分という人間がどのおようなスタンスで生きてきていたのか客観的に見れるようになってきているのである。
 キャラクター的属性でいれば「ツッコミ」とか「クール」とかになりたがるというか、常識人のポジションに座りたがるのが習性としてずっと持ってるんだよなあ。理外の人間を否定したり破天荒なやつが嫌ってわけではなくて(むしろ好きですらある)、変わってるとか、異端とか、そういうところに己を置けない、全うで極めて常識である、そんな立ち位置になりたがってるということに最近気づいたのだ。
 だからといって他者に「いやお前ふざんなよ」とか思わないし、究極貴方が何者であろうとどんな行動を取ろうと興味なんて一つもない。そこで良し悪しや正誤を求めるなんてことは全く持ってない。
 あくまでこれは私が私に対して抱く欲求であって、他者の価値観に何ら異議申し立てはない。むしろ私に対する欲求ですら、そのコミュニティ内だけでの話で、周囲の人間がいなければ私自身なんてどうなろうが構わん、まともな人間にすらなりたくない次第だ。

 では、「まとも」ってのはなんだろうという話になる。
 僕の行動原理的に、別に倫理的に正しいことを重んじるというわけではなく、そのコミュニティ内でのまともであるので、世間から少し外れていても仲間内では普通であることならばそれは「まとも」であるということになる。もし今までアウトローな集団に属していたらきっと麻薬や暴力がまともになってしまっていたかもしれないということだ。危うすぎないか僕。
 ただ貴方の生き方を否定しないからこっちも否定しないでという感じ。

 こういった行動の背景にはきっと幼少期のトラウマや親の言いつけとかあるのかなって結構考えたんだけど、マジでない。なにもない。そういうところに固執するようになってる理由が見当たらないのだ。
 おそらくこういう立ち位置を維持することによって波風立たずに生きていけたことが本能的にというか強迫観念的に求めてしまうんじゃないかなと思ってる。逆に言えば「波風を極度に恐れている」という見方もできるのか……事なかれ主義とかはだいぶ昔から言われてたりはする。

 ここまで読んでもらってなんだけど結局答えなんてないので、こういう思考について何か思うこともない。そういえばそうだったなーっていう感想をつらつらと述べたのみなのでなんか大層な主義思想を期待していたらごめんなさい。
 ここにある文章も改めて見るとかなり事なかれな文章なんだなと気がついただけでも良しとしましょう。

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