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第76夜 天賦礼讃

 股関節の持病はおんぶ紐のせい、そんなことを言う人もいるけど、親のせいにはしたくない。その頃はきっと蝕まれようとする股関節より母の温かい背中にいることの方が優先だったはずだから。おんぶ紐とは背負う者が手仕事をしていることを意味する。そうでなければいつも赤ん坊の顔を見ていられるよう前紐にするのが親心だから。母は畑仕事が日課だった。一輪車に鍬やら肥料やらを積んで少し離れた畑へ通う。私はその背中で無防備に大の字で背中に張り付き続ける。数時間はその体勢は変わらない。いつしかガニ股が刷り込まれることになっていったのだ。
 私の股関節は50年間のいびつなバランスの中で軟骨が擦り減り,骨同士がぶつかりだし痛さで歩くのもままならなくなった。ついこの間まで出来ていたスポーツはもちろん、小走りや階段の駆け上がりどころか水たまりを飛び越すこともできない。肝細胞治療という望みの綱も効果なく、関節置換手術で痛みから解放された。しかし、親からもらった身体の一部を取り去るには覚悟が要った。全身麻酔の直前母親に謝り続け,目が覚めると新たな自分が動き出した。
 痛みで立ち止まりを繰り返した駅からの帰路も、記憶から消え去ろうとしている。おそらくあんな絶望の日々があったからこそ、今の有り難さがわかるのだ。そして同じ痛みをまさに今引きずりながら街を行き交う人が見えてくるのだ。痛そうな人はすぐに目に入ってくる。階段の人混みに痛みを堪え、それでも懸命に流れについていく人が見える。だがそれは見える人にしか見えないのだ。いや見ようとする人にしか見えないと言える。この見えるという優位性により、同じ痛みを持つ他者だけでなく自分の奢りまでもが見えることで自堕落から踏み止まることができる。
 堕落とは独善。不具なき自身の眼前にはまっ平らな道が続き、揺らぐことなく歩むことを当然とする独善。いっこうにその未成熟に気づくことなく、挙句の果てに独善者たちで群れを成す地獄。決してそこに足を踏み入れることなく周囲を見渡す、幼き日の温かい背中を思いながら。

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