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第70夜 襖絵の忸怩

「先日ね、祖母の3回忌で家を整理していたの。祖母の家は葛西が谷にあって結構な敷地にポツンと建ってるんだけど、遡れば東勝寺の塔頭だったらしいの」
柚子がそう言って私と友人の坂田が幼少を懐かしむ話をしているところに話に加わってきた。柚子は段葛から一歩入った飲食ビルの3階にある酒席『柚』の女将。6席の他の席にはまだ客はなく、私たちは誰にも遮られることなく昔話に盛り上がっていた。
「東勝寺は16世紀半ばには廃されてしまってるんだよ。お祖母さんの何代前になるんだい」
「そうよずっと前の話。それでね、茶室として使っていた和室の襖をそろそろ張り替えようとしたらね、下の方に飴色になった古い襖絵が見えたから知り合いの大学の先生に見てもらったの。そしたらゆっくり確かめたいからって持っていってね、3ヶ月経った頃に興奮して電話してきたの。あれは大変な絵だって」
「まさか雪舟とか?」
「それより前。建長寺ができた頃に中国から来ていた僧が国に戻って禅画の基礎を築いたまさにその人の絵かもしれないんだって」
「おい柚子さん、それだったら超国宝級じゃないか。で、今はどこにあるんだい?」
「先生のところ。上から何枚も貼りながら使ってきたものだから簡単にはいかないんだって。聞けばその貼り重ねられた中にも結構な絵があるそうよ。私が小さい頃は髭の長いお爺さんたちが立ち話している絵だった気がする」
「それは竹林七賢人図だな、きっと」
友人の坂田が麒麟山の温燗を舐めながら言う。坂田は神保町の出版社で全集編集の仕事をしている。今は銀塩フィルム時代の風景写真を集めているそうだ。
「七賢図は三国時代の中国で老荘思想を竹林で話し合う七人の賢人たちの情景を描いたものなんだ。山水図なんかは理想郷を描いたものだけど、七賢図はもっと思想を描こうとしているんだよ」
坂田はまだ話したがっているが、それよりもそのずっと下にある絵が何を題材にしてるのか気になる。
「で、その飴色の絵の内容は何だったの?」
「それがね、剥がせたところまでで見えたのは、作者の落款とかすれた墨の筆跡の端の方だけなのよ」
「多分それは溌墨の一部が見えてるんだな、山水だよきっと。13世紀あたりだと玉澗なんかが有名だけど」
「その画家なら知ってるよ。ぱっと見はどんな情景なのかはわからないが、まあ墨の広がりの偶然も手伝ってかなり一つ一つが価値のある作品だと聞いたことがある」
「俺が今取り組んでる風景写真集はゼラチンシルバーの銀塩が大半なんだが、今や希少なプラチナプリントのものは黒の濃淡が絶妙なんだ。プラチナの安定した性質のおかげらしいんだが、その描写も表現者の意図以上のものを引き出す。そりゃあそうだよな、今みたいに望遠レンンズなんて精度が高くないから細部なんて気にせずシャッター切るわけよ。そうすると写し込んだ中に現地では気にしてなかったものがプラチナのおかげでしっかり再現されてるんだ」
「ちょっと待って、それってさっきの溌墨みたいじゃない。作者の意を超えるわけでしょ」
「確かにそうだな。両者の違いは偶然生まれるか偶然写り込むかの差だ」
坂田は徳利の首を摘み上げ、ぶらぶら振りながら柚子女将にお代わりをねだり、
「要はだな、その飴色の絵の検品結果を待たねばいけないってことだよ」
柚子は湯から取り出した徳利の底を布巾で拭いながら
「うまく剥がせるといいんだけど…」
心配そうにもらすと坂田の前にとんと徳利を置く。
「それにしてもその絵だって無念だよな。まさか数100年に渡って地層みたいに上積みされちまったんだからな」
「いやむしろそのおかげで朽ちずに済んだんじゃないか」
「そうねえ。襖絵って実際にその襖に向かって書くわけでしょ。システィーナ礼拝堂の最後の審判みたいなものよね」
「別に紙に試し描きする画家もいるけど,溌墨は一発勝負だろうね。ただし礼拝堂の壁と違って気軽に描け差し替えやすい分、家主が鑑賞し切ったら一緒に埋もれていく運命なのかもね」
「ましていち渡来僧がいつか大家になるなんて思っても見なかったりするだろうし」
「そんな美術品、鎌倉にたくさん眠ってるのかもね」
「起こさなくてもいいのかもしれないわね」

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