【短編小説集vol,14】鎌倉千一夜〜みちおおち
第70夜 襖絵の忸怩
「先日ね、祖母の3回忌で家を整理していたの。祖母の家は葛西が谷にあって結構な敷地にポツンと建ってるんだけど、遡れば東勝寺の塔頭だったらしいの」
柚子がそう言って私と友人の坂田が幼少を懐かしむ話をしているところに話に加わってきた。柚子は段葛から一歩入った飲食ビルの3階にある酒席『柚』の女将。6席の他の席にはまだ客はなく、私たちは誰にも遮られることなく昔話に盛り上がっていた。
「東勝寺は16世紀半ばには廃されてしまってるんだよ。お祖母さんの何代前になるんだい」
「そうよずっと前の話。それでね、茶室として使っていた和室の襖をそろそろ張り替えようとしたらね、下の方に飴色になった古い襖絵が見えたから知り合いの大学の先生に見てもらったの。そしたらゆっくり確かめたいからって持っていってね、3ヶ月経った頃に興奮して電話してきたの。あれは大変な絵だって」
「まさか雪舟とか?」
「それより前。建長寺ができた頃に中国から来ていた僧が国に戻って禅画の基礎を築いたまさにその人の絵かもしれないんだって」
「おい柚子さん、それだったら超国宝級じゃないか。で、今はどこにあるんだい?」
「先生のところ。上から何枚も貼りながら使ってきたものだから簡単にはいかないんだって。聞けばその貼り重ねられた中にも結構な絵があるそうよ。私が小さい頃は髭の長いお爺さんたちが立ち話している絵だった気がする」
「それは竹林七賢人図だな、きっと」
友人の坂田が麒麟山の温燗を舐めながら言う。坂田は神保町の出版社で全集編集の仕事をしている。今は銀塩フィルム時代の風景写真を集めているそうだ。
「七賢図は三国時代の中国で老荘思想を竹林で話し合う七人の賢人たちの情景を描いたものなんだ。山水図なんかは理想郷を描いたものだけど、七賢図はもっと思想を描こうとしているんだよ」
坂田はまだ話したがっているが、それよりもそのずっと下にある絵が何を題材にしてるのか気になる。
「で、その飴色の絵の内容は何だったの?」
「それがね、剥がせたところまでで見えたのは、作者の落款とかすれた墨の筆跡の端の方だけなのよ」
「多分それは溌墨の一部が見えてるんだな、山水だよきっと。13世紀あたりだと玉澗なんかが有名だけど」
「その画家なら知ってるよ。ぱっと見はどんな情景なのかはわからないが、まあ墨の広がりの偶然も手伝ってかなり一つ一つが価値のある作品だと聞いたことがある」
「俺が今取り組んでる風景写真集はゼラチンシルバーの銀塩が大半なんだが、今や希少なプラチナプリントのものは黒の濃淡が絶妙なんだ。プラチナの安定した性質のおかげらしいんだが、その描写も表現者の意図以上のものを引き出す。そりゃあそうだよな、今みたいに望遠レンンズなんて精度が高くないから細部なんて気にせずシャッター切るわけよ。そうすると写し込んだ中に現地では気にしてなかったものがプラチナのおかげでしっかり再現されてるんだ」
「ちょっと待って、それってさっきの溌墨みたいじゃない。作者の意を超えるわけでしょ」
「確かにそうだな。両者の違いは偶然生まれるか偶然写り込むかの差だ」
坂田は徳利の首を摘み上げ、ぶらぶら振りながら柚子女将にお代わりをねだり、
「要はだな、その飴色の絵の検品結果を待たねばいけないってことだよ」
柚子は湯から取り出した徳利の底を布巾で拭いながら
「うまく剥がせるといいんだけど…」
心配そうにもらすと坂田の前にとんと徳利を置く。
「それにしてもその絵だって無念だよな。まさか数100年に渡って地層みたいに上積みされちまったんだからな」
「いやむしろそのおかげで朽ちずに済んだんじゃないか」
「そうねえ。襖絵って実際にその襖に向かって書くわけでしょ。システィーナ礼拝堂の最後の審判みたいなものよね」
「別に紙に試し描きする画家もいるけど,溌墨は一発勝負だろうね。ただし礼拝堂の壁と違って気軽に描け差し替えやすい分、家主が鑑賞し切ったら一緒に埋もれていく運命なのかもね」
「ましていち渡来僧がいつか大家になるなんて思っても見なかったりするだろうし」
「そんな美術品、鎌倉にたくさん眠ってるのかもね」
「起こさなくてもいいのかもしれないわね」
第71夜 みちおおち
「科学で判明した事実に言葉を付けてナラティブ化した者がカリスマになるのはおかしくないか。真理を知って一人一人が教えを持つべきなんだ。人の創作物に靡かず、自分で思え」
さっき担任の堀川が俺に説教した内容はちんぷんかんぷんだったが、人に言われてからじゃなく自分で動けってことだけはわかった。が、そんなことよく言われていることだから、今更何で渾々と俺に説くんだ? そういえば科学と真理ってのは何だか反対のような、でも科学は真理を求めるための行いのような…、こんがらがってきた。堀川は美術の教師だから理論より感覚が先にあるんだろうと思い、去年担当だった生物の名畑に聞いてみることにした。
「シナプスは新しいインプットをすでにある全ての枝葉に繋げる。それは脳個体の独自性をベロシティに加速させることを意味する。つまり個々人の脳は唯一無二であって、それぞれが思う世界、さらには宇宙はすべて違うものなのである」
おい、また大人はわからん話をしてくる。俺は田舎の高校生だぞ。そんなナラティブだのシナプスだのまだ教科書には出てきていないじゃないか。じゃあということで物理の吉田の教務室を訪ねた。
「科学はある限界を迎えている。次元が問題だ。11次元までは理論化されたが、それは11次元がないと説明がつかないと言うことであって、誰も11次元を意識し体感できた者はいない。目と脳を持ってそれを実証するのは不可能だ」
いよいよ迷宮の出口を失ってきた。私は脳をプスプス言わせながら廊下を歩いていると国語の近藤がおかっぱ頭にビン底眼鏡といういつもの独特の姿でペンギンみたいにこちらにやってきた。この迷宮にフィクションが主流の国語は関係ない。そう思いいつものように会釈だけでやり過ごそうとしたら、近藤の独り言が聞こえた。
「みちおおち みちおおち…」
聞いたことのない念仏なのか呪文なのか、やはりいつも気持ち悪い。
「中にたちたるみちおおち…」
何故かその言葉の広がりに心が留められた。
「近道先生…」
「あれ、3組の藤田くんどうした? 珍しいじゃないか」
覚えてくれているんだ。
「今“みちおおち”って言っているのが聞こえたんですが、何のことですか?」
「ああ、それはね私がいつも疲れた時に思い出すようにしているものなんだわ。漢字にすると三千大千って書いてね、正確には三千大千世界、仏教が説くこの世の根源のことなのだよ。藤田くんはわかるかなぁ…、江戸時代に越後の草庵で生きた良寛さん。良寛さんは三千大千世界をみちおおちって呼んでおり、彼の有名な句にも入っているんだわ。図書館にもあるから調べてみなさい」
意外なことに国語が迷宮の出口を教えてくれた気がした。私はすぐに図書館に向かい、筑紫選書なるシリーズの中に良寛を見つけた。背表紙裏の貸し出しカードは誰の名前もなく真っ白な状態だった。そしてすぐに見つかった。
あは雪の中にたちたる三千大千世界 またその中に沫雪ぞ降る
越後の丘で良寛は根源に出会ったのだ。いや、すでに出会いは済ませており、この雪の日に現世を離れ向こう側に意識を置いていたと考えたほうがいい。星の数ほどの雪の降る空に宇宙を感じた。その宇宙とは広がりの宇宙ではなく、微塵の素粒子が構成する宇宙、さらにその中にさらなるみちおおちを見据えている。つまり素粒子を構成するさらなる微塵世界の入れ子構造。
さっきの堀川の話が徐々に私のシナプスを繋げていく。その微塵を思えば思うほどに大きな力を感じる。そうだ、それを神と名付けることができる。微塵が結合を繰り返すことで形として具現化する、それを行いと名付け、それらの過程の齟齬を不幸と名づける。こうして発生する事象をナラティブ化し、その成り立ちに気がついていない者たちに説く。
その説教が何と名付けられているかに気がついた時、私は脳内にシナプスの発火を感じた。
第72夜 手紙を書け
あなたはとっ散らかっている。話していても支離滅裂じゃないか。自分の権利、被害妄想、無気力、いつもそれを繰り返す。まるで封をしたガラス瓶の中でいくつか混ぜられたナッツのように湿気った顔して収まっている。外に出て新たな芽を出せばいいものを、隣に接する存在にやれ近づくなだのあっちへ行けだの、自ら小さな狭い方へ閉じこもっていく。
何がしたい、どうなりたい、どうして欲しい? それすら見失ってはいないか?
あなたはあなたであなたは
あなたにしかわらない。
あなたのとなりのあなたも
あなたにはわからない。
あなたはあなたをしる
あなたでなくてはいけない。
まずはそれをしっかり肝に銘じること。
頭の中ではぐるぐる巡ってしまうから、何かに留めてみよ。デバイスでも紙でもなんでもいい。誰かに手紙を書け。きっと最初の一文字から迷うだろう。でも打ち書き出すんだ。
おまえのせいだ。
自分はちゃんとやっていた。
あのときおまえがあんなことをしたから。
文字が自分に向かって迫ってくる。自分が打ち書いた文字なのに、自分の心の露呈なのに、その文字列は他人事のように連なっていく。その調子だ。自分とは違う存在が動き始めたのだ。湿気った自分ではないアバターが外へ出て動き出したのだ。さあ、次の文字を打ち書け。アバターは生き生きと歩き回り、やがて走り出す。まだ見ぬ世界へ。
第73夜 マラガ港
血統書ではこいつの名前は“マラガアリゾナ”となっていたが、せっかくの家族なので新たにベティと名付けて13年が経つ。緑内障の回避で片目を失い、原因が突き止められない前腕痛で薬無しでは跛行を見せる。だが毛並みは艶が維持され若干気弱にはなったがむしろ今が平均的な状態で、じつに可愛らしいお婆さん犬だ。
ブリーダーから引き取って来た頃はやんちゃの極みで、新調した薄ピンクのカーペットをあっという間にレモン色に染め、近所の犬へは全身全霊の手荒い挨拶を仕掛け、野良猫やリスにはドラッグカー並みの突進を重ねた。生後からその片鱗を見せていたためか、アリゾナというワイルドな名前が与えられたようだ。しかしその前についているマラガという言葉は当時の私には想像もつかず、検索するとスペイン南のアンダルシア第二の都市と出てきた。画像ではコスタデルソルならではのリゾート感と、貿易での経済都市らしい高層ビルが立ち並ぶ。だが景観を死守する欧州ならではの美しさは、どうにもベティと相容れない。
デジタルマップの航空写真を拡大するほどにマラガの地形に鎌倉との共通点が見出される。湾形、道路付、周囲の山並み、だが湾中心に大きな港が占領していることだけは違う。貿易、観光クルーズ船就航を主な目的とする港はとても大きい。この比率で由比ヶ浜に港を置いたら景色は一変してしまうだろう。そんな時ふとある仮想が浮かぶ。和賀江島が港として成立していたなら…。両胸に抱えられるほどの石を集積して北条泰時時代に作られた和賀江島は小舟の船着場として活躍したが、江戸時代あたりから放置され瓦解すると満潮時には姿を消す岩場と化した。しかしこれが遠浅などの欠点を克服して港として進化していたなら、由比ヶ浜全域には大型クルーズ客船が停泊し、首都への玄関口になっていただろう。
遮るもののない青空をバックに白を基調とした大型客船が点在する姿は優雅の一言。動力を休ませる静寂感が伝わってくるからだろう。客室のバルコニーの老夫婦は朝日を受けた光明寺に島国の古都を感じ大きな身振りで感動を表し、手を引きながら部屋へ急ぐ。色鮮やかな服に着替え大きなストローハットを被り下船し久しぶりの地面を味わう。港周辺には店舗や施設が並び長旅の人々を迎える。船旅は時間がゆっくりな分、地上での時間が貴重なのだ。全てが揃う船内に唯一ないものは新たな出会い。新たな人、新たな景色、新たな匂い、新たな味。生きる喜びが寄港の度に全身を震わせる。船に委ねた数ヶ月の日々は人生終盤での特効の強壮となる。
かつてのように海までの30分を歩くことがキツくなったベティは、もっぱら滑川中域を橋上から眺めるだけになっているが、独眼で水面を見つめる姿はとても穏やかだ。欄干下の装飾用にくり抜かれた穴が自分にはちょどいい高さであることを知ってから、毎日散歩の途中ここへ顔を差し入れしばらく座り込む。やがて上流から運ばれてきた大きな朴葉に首を傾げ少し間を置いた後、ベティは小さな唸り声を吐いた。
第74夜 豊潤の実
青い実は熟しやがて摘み取られる
摘み取られなかったものは落実し
異臭とともに変色しやがて朽ちる
摘み取られた果実は丁重に納められ
熟成を待つ
ゆっくりと芳香を放ち絶頂に向かう
絶頂に達したものは朽ちない
年月とともに磨きがかかり
拝むこと触れることすら叶わない高みで
あらゆるものたちの妄想を掻き立てる
摘むとは選択
納めるとは束縛
受動の中で豊潤は成る
侵されることなく