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ギルバート・グレイプ

[ネタバレ含みます]

公開 : 1993年12月25日
監督 : ラッセ・ハルストレム
ジャンル : ドラマ・ロマンス

今まで敬体で書いていたが文章にしにくい感じがしたので常態で書くことにする。

オススメして頂き見てみた映画、とても好きな雰囲気だった。
非現実的な事件が起こるわけではなく、普遍的な日常の中で抱える問題を扱い、行ったこともないアメリカの田舎を懐かしく感じさせるような哀愁漂う空気感が心地よかった。

原題は
『What's Eating Gilbert Grape』
日本語に直訳すると「何がギルバートグレイプを食べた?」となるらしい。
ギルバートの時間は何に蝕まれている?みたいなニュアンスだろうか。それが愛する家族というのが皮肉だ。

明日突然消えるかもしれない命をどう生きるのか、をテーマに「守られる命」と「望まれているかもしれない死」が対比されている様に感じた。
道徳的に考えれば望まれている死なんてあっちゃいけない。命は皆平等に尊いとお釈迦様も仰っている。しかし現実はどうだろうか?そんな綺麗事だけで片付けられない問題だってあるだろう。言葉に出してないだけでそういう思いを秘めている人は少なからずいるはずだ。そんなセンシティブな内容を丁寧に昇華している映画だと感じた。


〈愛しているけど…〉

寿命何年もないと言われた知的障害を持つ弟を大事にしたい気持ちと、言うことを聞かずに好き放題やる弟にイライラする兄の葛藤、愛しているのに手を出してしまうその描写がすごくリアルだった。というかレオナルド・ディカプリオの演技が上手すぎる。役柄と同年代の知的障害のある方たちと数日一緒に過ごして勉強したらしいが、独特の表情の作り方だったり指の使い方だったりが本当によく再現されていた。この作品でアカデミー賞にノミネートされたという点も納得の演技力だった。さすがレオ様。

過食症の母は自分のことを「重荷」だと言い、家族の枷となってしまっている自分の存在を自覚し常に卑下していた。そんな彼女は息子の誕生日に亡くなる。まるで自分の死が息子への誕生日プレゼントかのようだった。
私はこの後の家ごと母を焼くシーンがとても秀逸なシーンだなと感じた。
「住んいた家が全焼する様子を家族が見ている」という構図は数々の創作物において度々使われてきた表現で、悲劇を演出する場面で使われがちだが、ここでは弔いの場面として描かれている。こんなに大胆で迫力のある出来事なのにその画面に漂う空気は厳かで、カタルシスさえ感じた。
夕焼けに包まれる自宅は小さく見るとギルバートは語っていたが、炎に包まれる家は大きく見えた事だろう。同じ「赤に包まれる家」なのにこんなにも意味合いの振り幅を持たせられるのは圧巻の感性だ。

あと私が好きだったシーンはギルバートの母が「昔はこんな姿では…」という言葉にベッキーが「私も昔はこんな姿では」と返す場面。相手を否定することなく、時間の中で変化することは当然のこと、とユーモラスに母のことを肯定してくれている。ベッキーの人間性をよく表している一言だ。
こんな素敵な彼女だったらそりゃ安心だわ。



介護の問題は誰しもが付いて回る問題だろう。ここでは兄弟で協力して解決しているが、一人で抱える人もいればもっと辛い思いをして今すぐにでも家族に手をかけてしまいそうになりながら必死に支えている家庭もあるだろう。愛する家族のはずなのに死んでくれたらどんなに楽かとその気持ちに思い悩む人もいるはず。そんな家族にとってはこの結末は望むべきハッピーエンドなのかもしれないし、反対に現実はこうではないと悲観的な感情が増す人もいるかもしれない。

命について考えさせられる映画だった

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あまりよろしくない方向で死を肯定する文章になっていた気がするので追記

弟のことも母のことも何が彼らを苦しめていたのか、それは彼らが孤立していたからだ。
一応兄弟で面倒を見ていたが弟の世話をしていたのは実質ギルバード一人だった。そこにベッキーが入ってきたことにより柔らかく問題が解決していく。
母に関しても、普段から周囲と接点を持っていれば、精神的な病気だったならば適切な機関にかかっていれば、ただの体重の重いだけの母だった。

テーブルの足は1本じゃ支えられない。人を支えるのだって同じだ。多ければ多いほど安定する。
最後のギルバートと弟がベッキー達と合流するシーンがこの問題のアンサーなのだろう。
What's の答えは「家族」ではなく「孤独」だった。

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