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父親に対する殺意

日本ではあまり親しみのない、「ナルシシスト」という言葉。
言葉として知ったのは最近だったけれど、思えば私の父は「ナルシシスト」だった。

ナルシシストとは

ナルシシストというのは、日本語で言う「ナルシスト」とは違う。
Dr. Ramani というお医者さんが、専門的に研究&臨床されている分野で、精神疾患としても取り扱われます。

具体的には、以下の性格がナルシシストの特徴です。
・自分を過大評価する(幻想に浸る)
・賞賛を必要以上に求める
・表面的、搾取的な関係性
・思いやりに欠ける
・自己存在価値の擾乱(よく吠える犬ほど気が小さい)
・執着、依存に難あり
・空虚感、退屈感の慢性化
・人生の移り変わり(変化)に脆弱
・自殺の危険性

実際には、これらがさらに細分化されたチェックリストがあり、全部当てはまっていなくても、ある一定数以上当てはまるとナルシシストとして診断されます。
もちろん、一般の人にも内在する特徴でもあるため、程度は人によりますが、ナルシシストの人たちに共通するのは、自分の問題ではなく外側の問題として認識し、自覚症状がないという点です。

脅威でしかなかった父

ナルシシストを研究している Dr. Ramani の著書に "Should I Stay, or Should I Go?"という本があります。
ナルシシストは、深い関係性を築くことが難しく、自分が相手の気持ちを傷つけてしまうことを理解できないため、ナルシシストと関わりを持つ人たちは、「この人のことは愛しているが、一緒にいると傷つく。この人との関係性を続けるべきなのだろうか」と悩んでしまうことを示唆したタイトルです。

私の父は、亭主関白で、思い通りにならないと声を荒げるタイプの人です。お酒への依存が強く、約70歳の現在でも、出かける用事がなければ、毎日午前中から飲んでいます。酔ってくると、怒りに支配されやすくなり、そのとばっちりは身近な家族や、ランダムな店へのクレームとして発散されます。

私が小さかった頃は、父にはほとんど遊んでもらった記憶はなく、遊ぶ約束をしては、「ゴルフのコンペに行ってくるからまた今度」と約束はなかったことになり、目も合わせてもらえませんでした。

毎晩のように、父と母は喧嘩していて、私は恐怖に震えながら、必死に喧嘩を止めようと仲裁に入っていました。
そして、気がついた頃には、怒りの矛先は私に向いていて、ものすごい形相で睨まれ、大声で罵倒される。そんな日常でした。

そうなってくると、だんだんと恐怖が体に染み付いてきます。
身を(心を)守ることに必死でした。

部屋に戻ろうとするところを、怒鳴って追いかけてこられたり、
大声で泣き叫びながら「もうやめて」と懇願したりしましたが、
どれも効果はなく、怒りと恐怖に支配され、いつしか父親に対して憎しみや殺意を抱くようになっていきました。

現在は、基本的に離れて暮らしているので、平穏な毎日を過ごしていますが、ふと実家に帰ると、私のことを心配している…と言いながら、私がいかにクズな人間なのか、父の思う理想の娘像とかけ離れているかを、永遠に聞かされ、少しでも逆らうと怒鳴られます。

私が自分と向き合い続けて得た平和

父は変わりません。
でも私が私を変えることは出来ます。

過去の記事に書きましたが、父との関係性は、これでもとても変化しました。


それでも、やはり何時間も罵倒され続ける中に居続けるのは、苦しいです。
今日は、約2時間、病院の待ち時間や、移動中の車内で、永遠と私のことを言い続けていました。私の彼のことについても、「お前に言っても仕方ないんだけど」と言いつつ、永遠と…。ずーっと、いかに私がダメで、「オレが心配してやっているか」について、話し続けていました。

車酔いしやすいのもあって、途中で吐き気がしてきたので、「ごめん、静かにして欲しい」と一言だけ言いましたが、あとは何も言わず、ただひたすら聞き続けました。

自分の本当の気持ちや、愛以外の場所から、何かを口にしてしまうことは、Mouth Karma (口のカルマ)を生み出しますし、関係性が良くなることはありません。なので、密閉空間で私ができることは、ただひたすら黙っていることだけでした。

父は、私を先に降ろして買い物をしにいきました。
父と離れた瞬間、ずっと感じていたけれど出すことの出来なかった怒りを、誰に当たるわけでもなくぶちまけます。

たまたま周りに人がいなかったので、その場で思い切り叫びました。
気が狂っておかしくなるんじゃないかと思うくらいの勢いで叫びました。

帰って、叫びながら布団を殴って、自分の感じていた怒りや殺意を、安全にリリースしていきます。
(これをするためには、まず安心安全な環境を作ってくれるヒーラー、カウンセラー、ファシリテーターなどにいてもらう必要があります。慣れてくれば、自分で自分のことをサポートしながら行うことができるようになってきます。)

人は、感じている感情を持ちきれないことで、誰かに当たったり、なかったことにして抑えこんでしまいます。
自分の感情を自分で持つことができ、安全にリリースすることが出来ることで、内側の平和が戻ってきます。

癒しの道は険しいです。

ふわ〜ん。ああ気持ちいい。という具合には行かないのです。
自分の内側に平和を作るという決意、そして、自分を裏切らない強さが必要なのです。

昔は感情に飲み込まれていた私ですが、
今の私は、さまざまな感情をこの瞬間、同時に持つことが出来ます。
父に対する感情だけでも、怒り、殺意、憎しみという感情もあり、そして、愛もあります。
父への愛があるからこそ、破壊的な感情から動かない(発言しない)ことを選択出来ることを知っています。
自分への愛があるからこそ、自分の感情があることを許し、自分の感情と共にいながら、安全だと感じられるタイミングでリリースしていくことを選べます。

溜めると狂気に変わってゆく現代

怒りをリリースしていく瞬間に、自分の内側にある狂気に気がつきました。
父を殺してやる、という感情と、自分も殺してやる、という感情。
(実行に移そうとするわけではなく、ただこういう感情があることを認める、という意味。)

この感情を、リリース出来ないことが、この狂気を生み出しているんだと、体感しました。

今回の私は、感じた直後にリリースすることが出来たので、ものの1分くらいで体の震えも収まり、スッキリしたー(笑)と、自分の感覚に戻ってくることが出来ましたが、そもそもまず自分の感情を認識するって、そんなに容易いことでもないと思っています。(色んな感情が、混ざっちゃっているから。)

私は過去に、パニック障害も持っていた時期がありますが、あれも自傷衝動があり、その根元になっている感情は怒りでした。気が狂う感覚がありました。
あの頃はまだ、自分がそんなに怒りやその他の感情を溜め込んでいるなどとは、自覚していなかったので、それがパニック障害という形でドっと出た時には、文字通りパニックでした。

大なり小なり、怒りを溜め込むって、誰にでもあることです。
でも、怒りを溜め込むことは、とても危険なことでもあります。

現代、ストレス社会と呼ばれるくらい、ストレスで溢れています。ストレスそのものが悪いわけではありません。でも、どのくらいのストレスをその人が許容できるか?は、その人にしか分からず、「これくらいのことで」などという言葉で、他人が片付けられることでもないし、ストレスを抱えているのに我慢しなければいけないと感じている人がおかしいわけでもないと思います。

仕事も大事だけど、自分の体と心が健康なことの方が、私にとっては大切です。

自分の感情が狂気に変わる前に、もしくは変わってしまったのだとしても、それをリリースする術があることも知っていてほしいし、自分に愛を持って、関係性を大切に作っていってほしい。そんな社会だったら優しいよなぁと思います。

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